早く何者かにならないと…自分への色付けを急かされることについて

誰にも見えないミスターセロファン

芝生の上で日光浴をする女性の画像

「シカゴ」という有名なミュージカル映画を10年近く前に見た。たくましい女性が複数出てきてパンチの効いた歌を歌う映画なのだが、私は物忘れがひどく、あらすじについては残念ながら大方忘れてしまった。しかし唯一、忘れられない劇中歌があって、タイトルは「ミスターセロファン」という。

セロファン、というのは文字通りセロファン紙のことで、存在感のない、うだつの上がらない男が、無色透明なセロファン紙さながら人の目にとまらない、印象の薄い自分を指して、自虐的に「俺はミスターセロファンだ」と歌うのだ。

当時、私は母親になりたての専業主婦であった。友達も少なく、社会との接点もなく、ほとんど家にこもって子供とだけ接する毎日。一方、元夫は、躍進中のベンチャー企業経営者として日一日と名をあげていた。産後の情緒不安定もあいまって無力感ばかり募る中、自分は誰にも見えない存在、誰の印象にも残らない、誰にも声をかけられない、空気みたいな存在、と情けなさの限りを尽くして歌うこの歌には、非常に染み入るものがあった。

その後長い時間が経過し、幸いなことに友達も増え、社会との接点もいくつか持てるようになったけれど、それでも未だにミスターセロファンは他人になりきれない。というのも、私はやっぱり今でも“無所属”だからだ。
実際フリーランスという働き方を選んでいるわけで無所属になるべくしてなっているのだが、これはなにも労働形態に限った話でなく、たとえば「オタク」とか、「キラキラ」とか、「ロハス」とか、「サブカル」とか、世の中には無数のクラスタがあり、その気にさえなればきっとどこかに帰属することができるはずなのだ。中の人たちだけで通じる言語を喋って、その人たちだけにしかわからない空気を、私も共有したいと長いこと思っていた。

それで実際、面白そうなところにあちこちふらっと顔を出してみたりもする。すると、コミュ力が比較的高いのでそれなりに馴染みはする。ところが、そこに根がはれるかというと、どうしてかそうはならない。入門編くらいまでを味見すると、ほ〜美味しかったな〜って感じで満足して、無意識のうちに今度は別の場所に、ふらりと引き寄せられてしまう。
つまり生まれてこのかた、延々とどっちつかずを繰り返しているのである。