“私”を誤解しない

誤解されないように、なんて無理だから、
せめて自分を誤解しないように生きたい。

表面だけを言語化された言葉たちが、いつのまにか自己評価にすり替わっていたり、何となく貼られたレッテルが、本当の自分を表現する邪魔をしていたり…。
真に受けすぎると、一種の呪いみたいに“私”に染み込んで、違和感を手懐けながら生きることになる。

自分を誤解していた。そんな経験はごく身近にあるものだと思う。
一つや二つの誤解ではなく、何度も、何年も、何個も誤解していた。今もまだ解けていない誤解があるかもしれない。

私の場合は、
「男勝り」「我が強い」「タフ」「ヒステリー」「口が悪い」「ガサツ」「器用」といった自分に対するイメージを過剰に持っていた時期があった。なんとなく、人に言われて自分のものにしていた言葉たちだが、今ではスクラップ済みの自己像だ。
このような一面が有るか無いかは置いといて、内面化するのを辞めてみた。それはふとしたタイミングで真逆の印象を述べられた時や、本当の自分とのギャップや違和感に気が付いた時に「あれ? そういえば全然違うかも、私」と、疑問視することで手放すことができる程度のものだった。

「思慮深い」「繊細」「真面目」「几帳面」「不器用」「気ぃ遣い」
近年ではギャグみたいに真逆の印象を語られることもあるが、私の人間性が著しく変わったわけではない。
思い込みを解いてみたら、新しい輪郭が見えた。くらいの些細な意識の差かもしれない。

「芸能人でいうと◯◯に似ている」も、細い眉毛に金髪だと田中麗奈、黒髪に眼鏡だとアンジェラアキ、ショートカットに前髪を作ると釈由美子、センター分けだと成海璃子、スパイラルパーマだとSuperfly、薄い眉に濃いメイクだと中島美嘉…と、その時の髪型や化粧などのイメージで象徴的な人物テンプレートに当てはめられることがある。
雑にまとめると、タイミング次第で何にでもなれてしまう。
人が語る印象なんて案外適当で単純なものだったりする。