シンプルなのに伝わらない

ラップする椿の画像

「男でも女でも嫌いな人は嫌い、好きな人は好き」
これは実際に、あるMCバトルで私が吐いた言葉だ。

こんな当たり前の主張をなぜ、時に声を大にして伝えなくてはいけないのだろう?
それは個人vs個人であるはずの対立が、「男vs女」や「女vs女」にすり替わってしまった場面だった。

このようなすり替えは日常にも溢れている。たとえば、同僚男性と口喧嘩になる。ヒートアップした頃合いに「お前、男をなめてんのか!」ときたら最後。「..!? 何言ってんの! 男とかじゃなくて貴方に対して言ってるの!」となり、噛み合わない口論の幕開けとなる。「そうやって女の味方ばかりして」などの言葉も、思いがけず男vs女の対立構造を作ってしまうきっかけになる。

男、女じゃない、私は嫌だ。
男、女じゃない、貴方と話しがしたいんだ。

こんなにシンプルなのに、こんなに伝わらない。
そして、貴方みたいな男がいるから~」「貴方みたいな女がいるから~」と一緒くたにされることへの不満が、目の前の個人へ向く。

“異端な個人”は果たして悪なのか。この生きづらさは一体、どこからやってきたのだろうか。

“男”に縛られてる友人も、“女”に縛られてる友人も、私には不自由に見えた。
友人たちに、どんなに貴方が魅力的で、どんなに貴方が好きか。伝えても伝えても、世間の定める“男らしさ”“女らしさ”にそぐわない時に彼らは自信を失くしてしまうからだ。
女なのに、夫の方が料理が上手だ、と泣く彼女。男なのに、職場の先輩女性より仕事ができない、と項垂れる彼。

どうして、「勝たなければ」と感じるの…?
それは貴方が決めたこと? それとも…。