それほど交流が深くないメンバーが集まる飲み会などで、社交辞令的に飛び交う質問「好きな人のタイプは?」が、実はすごく苦手である。どストレートに答えると、私の場合は「一定以上の読書量がある人」。古典文学や哲学など、わりと重めなやつを含む本を年間30冊以上読んでいる人が好きだ。好きだというか、友人としてもパートナーとしても、話が盛り上がって仲良くなれることが多い。
だけどこのどストレートな回答は、私自身はそんなつもりはないのだけど、ちょっとお高くとまっているように思えなくもない。つまり場によっては、あまり歓迎されない。この手の質問への回答は、その場にいるメンバーを決して脅すことなく、和ませつつ、できれば笑いまでとることが望ましいのだ。したがって私は、本心が特に求められていない場では、「丸顔の人が好きなんですよね〜! オードリーの若林とか〜!」と、答えることにしている。「本心が特に求められていない場」の例として、たとえば昔やっていた水商売のバイト。おじさんたちに好みの男性のタイプを聞かれた際、私はよくこの回答を使っていた。
……若林は置いておいて、「一定以上の読書量がある人」を私が好む理由は、第一に、そういう人は世間のさまざまなことに関して寛容であることが多いからである。もちろん本を読む人全員が寛容なわけではないし、本を読まない人全員が不寛容なわけでもない。あくまで「そういう傾向がある気がする」って話に過ぎないのだけど、古今東西の文学作品を手にとっていると、殺人も窃盗も不倫も、私たちの社会で「だめ」と言われているアレコレが、たくさん登場する。なぜ「だめ」なことを、だめとわかりつつ人はやってしまうのか? それを考えるためには想像力がいる。想像力があれば、寛容というか、物事はなんでもかんでも一刀両断にできるものではないとわかる。
前置きがめちゃくちゃ長くなってしまったけど、私が年始に読んでいたのが島本理生さんの小説『ナラタージュ』だ。これは一言でまとめると、私たちの社会で「だめ」と言われているアレ、不倫の物語である。
葉山先生はエロジジイなのか?
主人公の泉は、高校のとき演劇部に所属し、その顧問であった葉山先生(既婚)に片思いをしていた。教師と学生同士なこともあり、泉が高校生のうちは、2人の関係が本格的に発展することはなかった。しかし卒業後、泉は母校である演劇部の卒業公演に出演することになる。そこで、在学時からずっと思いを寄せていた葉山先生と再び交流するようになり、2人の関係はどんどん発展していってしまうのだ。
まずもって、「元」とはいえ教え子に手を出すことがけしからんし、既婚の身分であれば、それは二重に許されることではない。葉山先生とはなんたるエロジジイであるか、とあらすじを読むと思うだろう。だが結論からいうと、私はこの『ナラタージュ』を深夜に読んで、しくしく泣いてしまった。10歳以上年下の元教え子に手を出す理由は、必ずしも教師がエロジジイだからではない。葉山先生にも、泉にも、互いに惹かれてしまう止むを得ない事情があり、それは人間同士であれば仕方のないことだった。「止むを得ない事情」とは何か、それはネタバレになってしまうので、実際に小説を読んでみてほしいのだが……。教師と教え子だから、惹かれあってはいけない。既婚者だから、パートナー以外の人に思いを寄せてはいけない。社会のルールはそうなっているが、人間は決して、合理的な生き物ではない。
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