私の連載を掲載し続けてくれているこのAMは、「恋に迷ったら」というキャッチコピーを掲げている。なるほど、恋に迷ったら。「人間との恋に迷ったら」と限定はされていないので、つまり、それが恋であるならきっと、相手は人間でなくてもいい!
……そう解釈した私は、ここ半年くらいの間に読んでもっとも感銘を受けた本である『聖なるズー』を、今回とり上げてみようと思う。
著者の濱野ちひろさんは、ノンフィクションライター。『聖なるズー』は、濱野さんが修士論文のために行った調査がもとになっている。タイトルにある「ズー」とは、犬や馬をパートナーとする動物性愛者のことだ。
人間のパートナーから性暴力を受けた経験のある濱野さんは、自分を苦しめてきた出来事と闘うための武器になると考え、京都大学大学院でセクシュアリティ研究を行うことを決める。とはいえ、性暴力をストレートに研究対象とすることに疑問を持った濱野さんは、指導教員に相談。その結果、「獣姦やってみたら?」と提案され、この本が生まれる運びとなったのだ。
動物と「セックスを合意する意思疎通」はできる?
濱野さんが本書で中心的に取材を行うのが、ドイツにある動物性愛保護団体の「ゼータ」である。代表のミヒャエルさんは、訪れた濱野さんに「キャシーだよ。僕の妻」といって、パートナーの犬であるジャーマン・シェパードを紹介する。
動物性愛というものに馴染みがない身としては、ここだけでもちょっと驚いてしまうだろう。だけど読み進めていくと、「獣姦」と「動物性愛」は大きく異なるものであるとわかっていく。「獣姦」はいわゆるレイプであり、人間が動物の意志を無視して行うもので、性器を痛めつけてしまう可能性もあるため、ただの動物虐待だ。でも「動物性愛」は、パートナーである動物を尊重し、性器を痛めつけることなどなく、動物側にも性欲がある状態でセックスが行われる。人間側の性欲のはけ口として動物を利用しているわけではなく、ミヒャエルさんがキャシーを「妻」と紹介していることからもわかる通り、パートナーとしての動物に、深い愛情を抱いている。ズーは、動物しか性的に愛せない人もいれば、人間と動物両方を性的に愛せる人もいる。
本書を読んで、彼らのしている行為を動物虐待だと考える人は、きっと少ないはずだ。ズーと一緒にいる動物たちが、人間に怯えることなく、生き生きとしている様子からもそれは伝わってくる。ただ、少し疑問を抱く人はいるかもしれない。ペットや家畜として飼われる動物は、人間の庇護のもとにしか生きられない。言葉も通じず社会性も持たない、そんな動物たちとの間に、はたして「セックスを合意する意思疎通」や「対等なパートナーシップ」が確実に成立しているといえるのかどうか。この点をもって、虐待ではないにしろ、ズーに批判的な態度をとる人は少なからずいるだろう。
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