欠けたものを埋めるに、文章を書き続ける

 私はひとりだった。けれど、不思議なことに常に周りには人がいたような気がする。そもそもひとりでいてもそれほど困らない性格というのもあるのかもしれないけれど、続く・続かないは別にして友達は多い方だ。毎週のように飲み会があって、誘ってくれる人がいる。

 なんでだろう。これにもたくさんの理由があるはずで、そのうちのひとつに、恐らく「文章を書く能力がそれなりにあるから」があると思っている。
今、付き合いのある友達のほぼ全員、私がこうして執筆活動を行っていることを知っている。私が文章を書いたり、Twitterでフォロワーが増えなければ知り合えなかった人ばかりだった。でも、知り合うきっかけになることと、付き合いが続くことはまた別問題だ。

 なんでなんだろう、人として圧倒的に何かが足りない私。たぶん、友達に「あたそってどんな人なの?」と聞いたら、悪口しか出てこないと思う。「いい人なんだけどねえ」と言われる人は大抵あまりよくない人だという通説があるが、それが正に私だった。
いい年齢の大人なのに、友達からは月1ペースで怒られたり、注意されたりしている。けれど、そういう友達が案外私の出す本を楽しみにしてくれていたり、「買うよ!」と言ってくれたりしている。照れくさい。恥ずかしい。そういうの、別にいいのに、と思う。

 友達として、自分の周りに残るのは、人間性や人格を許せる人だ。知り合うきっかけなんてお金があるから、知名度があるから、面白いと思ったから。さまざまあるのかもしれないけれど、結局は信頼できる人や興味が続く人しか残らない。
何かが欠けている私のなかの隙間を埋めるのが、たぶん文章を書く力だった。ひとりでいることの価値をくれたのも、人としてひとりで立てるのも、文章を書くことが根源にあったように思う。

 ただ単に一冊の本を出すだけだ。それに他の人と比べると私は声がかかるのも遅い気がするから、才能がないのかもしれない。何も変わらないかもしれないし、何かよくないことが起こる可能性だってある。
文章を書くのが好きか、というと実はそうではない。「最近、文章を書くのが楽しくて……」というような発言を聞くとぎょっとする。苦しい、嫌だ、やりたくない、でもやらなきゃいけない。

 文章だけじゃなくて、音楽や演劇、漫画、映画、何かの創作は人格を乗り越えることがある。許されることだってある。私は、ひとりの人間としてどこに行けるんだろう。まだわからない。
けど、私は自分の欠けた部分を埋めるために、何かしらの形でしばらく文章を書き続けるのかな、と思っている。

Text/あたそ

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次回は <不倫は正しい恋じゃない。そんなこと分かっているから、私は肯定も否定もしない。>です。
友人から不倫していることを告げられたら、何て言ってあげるべき?そもそも、不倫は間違った恋愛なのか?正しい恋愛じゃないと、止めるべきなのか?肯定も否定もしないあたそさんの態度とは。