「あ、見損なわれたな」と感じたのは、自分の家庭環境の悪さを話したとき

人と話をしていて、「あ、見損なわれたな」と思う瞬間が、ごくたまにある。

本来、自分に対してであればなかなか気がつくことはない。人に対して失望することがあっても、なんとかその場を切り抜けるのが大人であり社会人であり普通の人だと思うし。

例えば私の場合だったら、外国人に対してナチュラルに差別発言をする人とか、他者に対して「狂ってる」「頭がおかしい」と断言してしまう人とか。選挙に行かない人、周囲に対して誠実ではない人、嘘をつく人、人によって態度を変える人、他者を性別でしか判断しない人。そういう人に対して、私はいつも失望し見損なっている。
そういう他者との境界線みたいなものは、誰だって持ち合わせているのだと思う。

暴力も暴言も、ただ過去に起きた事実として

私は出生があまりよくない。両親は離婚しているし、父親とは縁が切れている。家族と連絡を取り合うことも、予定を立てて会うこともない。
別に今更隠す気もないし、コンプレックスでもない。どの家族にも大なり小なり問題はあって、その問題が私の場合は暴力や暴言として自分の身に降りかかってきただけだ。悩んだことも悲観したこともあって、未だに家族とのうまい付き合い方がわからなくてひどく落ち込むことがある。それでも、今の私にとってはただ過去に起きただけの事実で、辛かった出来事でもなんでもない。いや、辛くはあったけど。あの生活しか知らなかったので、私は私の家庭環境の悪さを受け入れて生きていくしかないのだと思っている。

そういうわけで、私はコミュニケーションの取り方とか人との距離の測り方がどこかズレているのかもしれない。かなり仲のいい友だちからも「人との関係に、常にブレーキをかけているよね」とか「心のパーテーションが多いよね」と言われたりしたことがあったから。意識していないにしても、ちょっと変なのだろう。心のパーテーションってなんだよ! とは思うけど。

私の友だちに関しては、ほとんどの人が私の家庭環境の悪さを知っている。大半が何かしらのSNSで繋がっているし、不思議なことに家族との不和に悩んでいる人と知り合うことが多い。話の流れで、お互いに家庭環境が悪いとわかって意気投合することもよくある。