何かを言い続けるのは
誰かのためではない
こういう恋はやめた方がいいとか、こういう女に気を付けろこんな男はやめておけ。巷に溢れるこの手の記事を、読んだから実際にやめたことってありますか?私もそういったコラムを書いている人間の一人だけど、ない。残念ながら、読んでどれだけ「理解した」と思っても、身体はついていかないものだ。仕方ない。それでもお節介に何かを言い続けるのは、別に誰かのためとかでなく自分の為なんだと気付く夜があった。他人のおかげで自分がわかる。今回は、私に「自分が何を嫌だと感じるのか」を教えてくれた1組のカップルのお話です。
若いカップルだった。場末の飲み屋で隣席だった彼女たちはたぶんこの辺りに住んでいて、ダラダラとお酒を飲んでいる。店員とも親しげにしゃべっている様子から見て、常連客のようだった。彼氏は彼女のことを「こいつ」「お前」とかって呼んでいて、自分もつい最近桃鉄をしながら「お前のせいだよ!」と夫にぶちぎれたことを思い出す。やっぱお前って言うの良くない。気をつけようと思いながら、話し声を肴に飲み続けた。彼氏はずっと上機嫌で、彼女はハムスターみたいに頬を膨らませている。他人でもわかる。大丈夫か?彼氏、調子乗りすぎじゃないか?楽しいのはわかるけど、ちょっと落ち着いてほしい。彼女マジでつまんなそうにしてるから。私にどうにかできるはずもなく、彼氏のテンションはどんどん上がっていて、ついにあの一言が出た。
「いやこいつはダメだから」
なんのことを言ってるのかはわからない。ただ、彼氏が彼女の何かを「ダメ」だと紹介していた。その後も「こいつは歌が下手」だとか「お前は可愛くないもんな」とか、やめといた方がいいパートナーのお手本みたいな台詞が続く。うわぁすごい。本当にこういう人いるんですね。言われている彼女はというと、一貫して無反応。何を考えているのかは全然わからなかった。他所のカップルのことだし、もちろん私は何も言わない。こういうコミュニケーションが好きな人も世の中に入るし、それでうまくいくこともあるだろう。でも、私はされたら絶対嫌だ。こんな風に言われたら即刻家に帰る。でもこれの、何がそんなに嫌なんだろう。
「可愛くない」とか「ダメなやつだ」と言われて、嬉しい人はあまりいないだろう。だからもう、その言葉を向けられた時点でそりゃ嫌なんだけど、私の嫌悪の原因は「可愛くない」とかって言葉ではない気がした。そこじゃなくてもっと奥。私が拒否反応を起こしているのはそもそもの語り口だと気付いたのは、彼氏の「こいつは〇〇なんで」が、謙遜だと気付いた時だった。
自分以外の場合…私は謙れない
謙遜‥それは日本が誇る美しい文化‥なんですか?もちろん私にも一般常識があるので、手土産を渡すときには「つまらないものですが」挨拶の際には「至らない点もありますが」と言う。だけどそれは、自分のことだからだ。自分が買った手土産を渡すときは「つまらないものですが」と言うけれど、誰かに託された手土産を渡すときには言えない。絶対に言った方が良い場面だとわかっていても、言えないのだ。だって私が選んだものじゃないから。どれだけ自分と近しい人間であったとしても、それが自分以外の選択の場合、私は謙ることができない。私は「自分か、自分じゃないか」の線引きが恐ろしく強い人間なのだ。なんか怖いけど。
その片鱗は幼少期の記憶にもある。誰かが私を「かわいいね」と誉めてくれた時。例えば父が、母が、親戚が「いえいえそんな」とか「デカいだけですよ」と謙遜した。私はその言葉で心が重くなったことを覚えている。担任の先生が別のクラスの先生に「いやいやこいつは、お調子者で困ります」と笑って話した時「この人なんなの」と思ったことも覚えている。あの頃私は、その気持ちの理由がわからなかった。大人たちが、本心から私を「いえいえ」と思っているわけではないとわかっているのに、こういうもんだと幼いながらに知っているのに、なぜ重たい気分になるんだろう。悲しみ?怒り?たぶんどちらもあった。谷川俊太郎の「春に」状態である。そしてようやく、二十九歳の春に謎は解ける。
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