私は誰かに私を謙遜されたくない。その行為は所有だからだ。私は誰の持ち物でもない、一人の人間だ。どれだけ親しい仲でも、恋人でも、家族でも、私じゃない人間が私を謙遜することに耐えられない。それがどんな言葉であっても、耐えられないのだ。何もできないクソガキの頃からそんなことを思うなんて本当に不遜で生意気だけど、どうしても譲れなかった。だから「私とあなたは他人である」をテーマに親子喧嘩をしたことも多くて、あのときはごめんねって気持ちと、同時に何故あの時自分があんなに頑なだったのかが腑に落ちる。私は私であなたはあなた。そこに血も愛も関係ない。それらは個人のつながりの中にあるものだ。だから私は、自分が誰かに内包されることに耐えられない。それが愛であったとしても。

これは、私の生き方で考え方。正しいも間違いもない。ただ、そう思って生きている。あのカップルはどうだろう。きっと、人によっては所有することに愛情を感じたり、内包されることに安心感を抱いたりするんだろう。私はそういうタイプじゃないけれど、想像してなんとな〜く理解することはできる。「俺の女」と言われることにグッとくる女性や「私がいないと何もできなくて」と紹介されて目尻を垂らす男性も確かにいる。私はそうじゃないけれど、でも、それがしっくりくるならそうしたらいい。あの二人にとって、どちらかがどちらかを謙遜する付き合い方が、ばっちり心にあっているものだといいなと思った。ちょっと今のままだとバランス悪そうなのが気になるけど、きっとこんなの余計なお世話。

TEXT/長井短