私は人と会話するのが苦手である。いわゆる「コミュ障」というやつで、30歳前まではなんとか苦手を克服しようと頑張ってみたこともあったけど、頑張った末の結論は「性格を直すのは無理。コミュ障が目立たないテキストのやりとりが多い場に身を置いた上で、欠点は他の長所を伸ばすことでカバーしよう」だった。つまり根気が足りなかったわけだが、潔く諦めたおかげで以降はだいぶ生きやすくなった。
一人暮らしの在宅勤務で趣味がオタクだとテキストを介したコミュニケーションばっかりなので、普段は自分が「コミュ障」であることを忘れていられるくらいには、けっこう快適な毎日を送っている。今となっては本当に、たまにリアルで人の多い場に出ていくと「そうだ、私コミュ障だった!」と思い出す程度だ。
そんな人間に「コミュニケーションとは」などと語られてたまるかい! と不服に思う人もいるかもしれないが、コミュ障の私にはコミュ障の私なりの持論があるので、今回はそれを少し聞いてほしい。
私は1対1で話すとき、コミュニケーションに自信があるタイプの人のほうがむしろ苦手で、自分と同じく自称コミュ障の人のほうが一緒にいて落ち着くのである。コミュニケーションに自信がある人ってだいたい早口だし、威圧感がないですか?! 私は本当にコミュニケーションが上手い人って相手に合わせて柔軟な受け答えができる人だと思うんだけど、世間ではこの早口で威圧感があってグイグイいく系の人もコミュニケーションに自信を持っていいことになっているらしいのが、ちょっと不満だ。潔く自分のコミュ障っぷりを認めている身としては、「不公平だ!」と思ってしまうのである。まあ、それはいいとして……。
コミュニケーションは協働作業
前置きについ力が入ってしまったが、今回扱う本は『語学の天才まで1億光年』。本書は学生時代から25を超える外国語を習い現地でも使ってきたというノンフィクション作家の高野秀行さんの、タイトルの通り語学にまつわる体験が綴られている。英語やフランス語やスペイン語といったメジャーな言語はもちろん、リンガラ語、タイ語、ワ語などのマイナー言語まで、様々な言語が登場して面白い。
テーマである語学とは少し離れるが、本書で私がいちばん「そうだよね!」と読みながら納得したのは、学生時代のインド旅行の中で高野さんが「コミュニケーションは協働作業」と考えるに至るエピソードだ。
旅行をするとき、その土地の言語や英語はもちろんできたほうがいいに決まっているが、上手く喋れなくても、たいてい相手はこちらのレベルに合わせてくれる。合わせないと、向こうもこちらの意図がわからなくて困るからだ。ゆっくり話したり、わかりやすい表現に言い直したりして、お互いに協力しながら会話を成立させていく。私は普段の日本語同士の会話でも多かれ少なかれそういう要素があると思っているんだけど、語学の話に置き換えるとそれがすごくよくわかる。
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