「小説はつまらない」は本当か?平凡な物語は、語り方によって奇妙にもシュールにもなる『話の終わり』

by Christin Hume

けっこう昔の話だけど、某実業家の人が書いた読書指南系の本に「小説はつまらない。フィクションなんかより、現実のほうがよっぽど奇妙で刺激的だ」というような一節を(うろ覚えだけど)見つけ、強烈な違和感を抱いたことがある。当時は若かったのでその違和感をあまり言語化できずにただモヤモヤと抱えていただけだったが(そしてそれ以降その実業家の本は読まなくなった)、今ならあのときに覚えた違和感を、どうにか言語化できそうだ。

小説の中にはもちろん、ファンタジーやSF、他にもぶっ飛んだ設定のものがたくさんあって、そういうものもとても面白い。一方で、ごく普通の人々の単調な日常を描いたもの、平凡な恋物語などを描いたものもある。そして、そういう物語がぶっ飛んだ設定のファンタジーやSFに劣るかといえば、決してそんなことはないと多くの人は知っているはずだ。ぶっ飛んだ設定や遠く離れた世界にしか刺激はないわけではなく、ほんのすぐ近くにある日常の中にも同等の奇妙さや刺激がある。まあ、やたらと海外旅行に行きたがる私がそんなことを言っても説得力に欠けるかもしれないが、少なくとも読書に関してはそうだろう。

2023年の第1冊目として扱いたいのは、アメリカの作家リディア・デイヴィスの『話の終わり』だ。大学教師として赴任してきた主人公が、十二歳年下の男と出会って恋人になる。しかし、2人はやがて破局してしまう。十二歳という年の差はなかなかだけど、しかしこれくらいは「平凡な恋物語」の範疇だろう。ところが、少し特殊な書かれ方をしているこの物語は、平凡であるはずなのに、どこまでも奇妙でシュールなのだ。

重なる主人公の「私」

十二歳年下の男と恋に落ちる「私」。しかしその「私」は、とある作家が書いている小説の主人公らしい。別の章が挟まれ、今度はその小説家が主人公となる。主人公には夫がおり、夫の父親の介護問題に頭を抱えている。そして、十二歳の男と恋に落ちる「私」の物語を、これからどう書いていこうか悩んでいる。

生い立ちが似ているため、この小説家の主人公はひょっとしてこの本の著者であるリディア・デイヴィス自身なのか? と私たち読者は首をかしげる。平凡な恋物語と、平凡な恋物語を書く平凡な作家の物語。しかし何層にも重なっていく「私」の中に迷い込んでいくうちに、ただただ平凡な物語であるはずの『話の終わり』は、とてつもなく奇妙なものとして立ち上がってくる。

十二歳年下の元恋人への未練を断ち切れない主人公がちょっとストーカー化してしまう場面があるのだが、それすらも、この奇妙な語り口の中に混ざると「なんだかこれもアリなのではないか」というふうに思えてしまい、危うくて面白い。

作家は、小説を時系列順に書くか、それとも必ずしも時系列順には書かないかで悩む。インドの太鼓を叩いていた十二歳年下の彼について、「インドの太鼓」とそのまま書くか、あるいは別の楽器を演奏していたことにするか悩む。どうやらこの「十二歳年下の男と恋に落ちる私」の物語は、作家自身の私小説的なものであるらしい。何をどのように書いたらありのままに書けるのか。かえってフェイクを混ぜたほうが真実に近づけたりするのではないか。そして、どこを「話の終わり」とするか。作家の試行錯誤を、私たちも追うことになる。