人との最適な距離の取り方

自分への意識だけではなく、他者に対する見方や関わり方も、表情や視線、態度など、些細なことで大きく変わる。

先日元同僚と仕事終わりに飲んだのだけれど、残業で遅れる同僚(男)を待っていて「席、どうしよっか?」と尋ねたとき、「レズだと思われるから隣同士で座るの辞めとこ(笑)」と言われて、私はきっとこの先この人と仲良くなることも心を開くことも人生相談をすることもないんだなと確信した。

彼女はなぜか私のことを気に入ってくれ、こうして退職後も頻繁に連絡を取り、たまに飲みに行くような仲だった。いい人だ。優しくてお喋りで、ちょっと卑屈で悪口がうまい。それは私にとって人間的に魅力的であるということなんだけど、どうしても引っかかる。今後もちょこちょこ連絡するし、タイミングが合えば飲みに行ったりするのだと思う。でも、決定的に私とは何もかもが合わないと思った瞬間だった。

これくらいの年齢になると、自分にとってベストな人を探すのって難しいんだなと心底思う。仕事の休みが合うとか、金銭感覚が同じとか、趣味への時間の割き方とか、どんなお店に普段行くのかとか、話題の中心が何かとか、コロナに関する考え方とか、選挙にちゃんと行くとか、そもそも一緒にいて楽しいとか、ある程度の常識が備わっているとか。

年齢を重ねるごとに、人間関係で無視できない項目が増えていっている気がする。だから、自分にぴったり合うようなまるごとすべてを愛せる人なんて、多分いない。それは私もきっとそうだ。私自身も誰かの100点満点の存在には絶対になれない。どこまで許せるかどうか。どこかで目を瞑り、譲歩し、妥協して、それでも付き合いを継続したい人だけが友達とか恋人とかいう名前のつく存在になる。

そう思うと、自分を傷つけてくる人、自分の価値を落とす人、「こいつ相手だったら何を言っても笑って許してくれる」と考える人と、もっと若い頃の私は適切な距離を取るべきだった。その場で笑ってやり過ごしたりせずに、きちんと言い返せばよかった。人のちょっとした言葉や態度、視線は、少しずつ私の心をえぐっていく。些細な出来事が、案外記憶からこびりついて離れなかったりする。

私がいつの間にか追放された「女性」という枠組みに、一体いつ入れてもらえるのだろう。どうしたら誰かの些細な一言に失望しないでいられるのだろう。他人と最適な関係、お互いにストレスを感じない距離、欠点でも目を瞑れる人はどうしたらわかるようになるのだろう。自分のなかからなくなった自信は取り戻すのにも長く時間がかかる気がするし、他者に対する些細でどうしようもない失望がなくなるはずもない。

どうして、みんな普通に人との最適な距離がわかるのだろう。他人を信じたり、友達や恋人と深い付き合いができるのだろう。許せる人、自分を許してくれる人はどうやって判断するのだろう。実は人との付き合い方のルールブックが私以外の人には配られていて、私だけがひとり取り残されている気すらする。

Text/あたそ