生き物と暮らしていくことに、人生のやり直しに近い感覚を持つ/あたそ

人の相談に込められているもの

少し前に鳥を飼い始めたのだが、彼は私という人間をまるで信用しきっていて、たまに怖くなることがある。私が手を振り上げれば撫でてくれると思って頭を差し出し、その細い首を無防備にしている。鳥は30センチ以上あって、比較的大きい。でも、その気になればいくらだって痛めつけたり、危害を加えることができる。少しでも強く首元を握れば、死んでしまうかもしれない。今までその機会はなく今後もないので、彼にとっての私はまったくの無害で、何も疑うことなくひたむきに愛情を向けてくる。その純粋な気持ちが怖い。

私は人から相談を受けることが多い。
それは、性格もあるだろうしある程度文章を書けるほどのボキャブラリーを保有しているからかもしれない。内容としては、転職したい、今の職場で上手くいかない、結婚したいけど今の彼氏とは……など主に仕事か恋愛の2パターンにしぼられる。そのあらゆる悩みの回答はネットにいくらでも転がっているのだが、彼ら/彼女たちは正しい答えを求めているのではなく、ただ話を聞いて共感して、自分のもっとも欲しい台詞を引き出したいという気持ちの方が強いようだ。 そんな傾向を理解したのと、また年を取ることで、相談を受ける側のコツみたいなものを段々と心得た。

要は、『悩みを相談している』という言動には、その悩みを解決したいという目的を達成するために行われるのではない。そのなかには、「自分を理解して欲しい」「あなたを信頼している」「距離を縮めるためのコツのひとつ」という意味合いも込められていたりする。人とコミュニケーションを取り続けていると、本音と建て前みたいなものがいたるところに含まれていることがわかる。

なんでもない話をそのままできること

そんな悩み相談とはまた別に、女友達の山なしオチなし意味なしな話を聞いていると、両親の愛情の深さの思いを巡らす。

周りの人間から愛された人間に、会話の技術なんて必要ない。両親は娘の話をすべて受け入れ、悩みを共有し、家族という関係を強くしていったんだろうな。それから、友達も恋人も色んな話を聞いてくれて……みたいな。その場にいるだけで、場の雰囲気を一変させる人間というのは、案外どこにでもいる。ありのままの自分でいることにまったく疑問がなくて、自分の退屈さや平凡さは相手との関係に何の影響も及ぼさないと信じて疑わないような気がして、なんでもない日常の話や自分自身の悩みをそのまま誰かに伝えられる人は、私にとってはそれだけで眩しい。

そんな人と出会う度、きっと何をしたって敵わないなと思うのだ。自己肯定感とは両親の愛情の深さによって決まると聞いたことがある。私が得られなかったもののひとつだ。