「寄り添う」まではいかない、一歩手前。ただ「私は居るよ」と伝えたい/姫乃たま

永遠なるものたち027「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」

 私はいま目が見えなくなったら、とても困ります。
 どうやって生活したらいいかわからないし、自分が何をわかっていないのかすら、わかっていないからです。
 きっと想像もできないようなことで困ったり、心細くなったりするでしょう。危ない目に遭うこともあるかもしれません。
 たとえば街中では、点字ブロックが道を示してくれると知識としては知っています。でも喫茶店なんかに入った途端、点字ブロックはなくなるし、メニューは読めなくて、どれくらい飲み物がたっぷり入っているのかわからないマグカップを片手に、いや、そもそもどんな間取りかわからない店内から空いている席を探すのは至難の技に思われます。

 これらをスムーズにやり遂げる術を、視覚障害者の方々は知っているのかもしれません。
 でも私は自分がその方法を知らないから、街で白杖を使っている人を見かけると、つい何か手伝えないかと目で追ってしまいます。その人が困っているかわからなくても、もし自分だったら困っているはずと勝手に想像してしまうからです。

 以前、新宿駅のすごい人混みで、白杖を持っている男性を見かけました。
 私が見上げていた階段は、上下左右、隅々まで人がいっぱいで、彼はその端っこを一段ずつ降りてきていました。
 周囲の近い人ほど彼が持っている白杖に気づいていない気がして、あるいは見えていたとしても誰かがよろめいてぶつかってしまうのではないかと思って、はらはらしながら見つめていました。
 せめて目的地の改札まで安全に辿り着いてほしくて、無事に階段を降りてきた男性に声をかけて腕を組みました。私のほうが彼の腕に手を組む形で。
 目の不自由な人と歩く時は、自分の肩か肘を持ってもらうのが適切であると教わったのはその時です。
 しかも聞いてみたところ、私は彼が目指している改札の場所がよくわからず、「右です」「左です」と説明してもらいながらおぼつかない距離感で一緒に歩き、さらに自分が行くはずだった改札への道のりまで丁寧に説明してもらいました。
 彼は通勤ラッシュの新宿駅を歩くのにも慣れていたし、新宿駅の構造にも詳しかったのです。
 適切で安全な手助けどころか、かえって男性の時間を取らせてしまって申し訳なくなりました。

 他者が困っているかどうか、どんな風に助けを求めているのか、あるいはそっとしておく場面なのか。
 当たり前ですが、残念なことに自分の想像が及ぶ範囲でしか考えることができません。
 あっという間に新宿の人混みへ消えていく男性の背中を見ながら、知識不足で視野の狭い自分がもどかしくなりました。

 それから長年、言語化できていなかった違和感について、ふと思い出したのです。
 それは小学校の授業で、盲学校の授業を見学しに行った時のことでした。
 授業参観で家族から見られるだけでも居心地が悪いのに、年齢の近い他校の生徒たちから授業を見学されるなんて、どんなに緊張するだろうと、自分がどきどきしたのを覚えています。
 訪問する前に白杖や点字について習いました。点字ブロックの意味を知ったのも、その時です。それまでどういう基準で道に設置されているのかわからなかった黄色い凹凸が、帰り道では途端に際立って見えました。
 盲学校への訪問も含めて、とても必要で貴重な授業だったと思います。
 でも私は肝心の見学で、目が見えない子たちの授業を見ることしかできませんでした。そして、見学している間じゅう違和感を覚えていました。

 いま思えば、私は「目が見えない人を見る」のではなく、「目の見えない人が、何を見ているのか」について頭を働かせるべきだったのです。

完全な暗闇で行動する

 『ダイアログ・イン・ザ・ダーク』を知ったのは、もう何年も前のことです。
 友人たちと食事をしている時に、最近面白かったことについて話し合っていて、話題に上がったのが『ダイアログ・イン・ザ・ダーク』でした。
 暗闇の中を視覚障害者の方にアテンドしてもらう体験で、友人が「暗闇から出た時に、アテンドの人の見た目が声で想像していた雰囲気と全然違っていた」と話していたのが印象的でした。
 たしかに目が見えていると、そんな体験をすることはあまりありません。待ち合わせの段階で、まず服装とか、人を探している感じの仕草など、視覚を使って相手を探しています。

 面白そうと思いながら、足を運ぶタイミングを何年も逃し続けたところ、昨年末急にその機会がやって来ました。
 福祉実験ユニット・へラルボニーの松田崇弥さんが「友人と行くのですが、たまさんも一緒にどうですか?」と声をかけてくれたのです。

 松田さんはヘラルボニーの活動で、知的障害がある方のアート作品を商品化したり、展示販売したりして、アーティストに収入を還元しています。
 福祉施設からアートを発信することで、世間の知的障害に対する先入観を変えながら、新しい文化をつくっている松田さんたちの取り組みに、以前から興味がありました。
 しかも実際に彼と会って話してみると、すでに順調に思えるヘラルボニーの活動についても、自分が決めた「アート」や「アーティスト」という枠組みについて、このままでいいのか絶えず見直し、更新し続けていることがわかったのです。
 常に自分や人々の物の見方を変化させられないか考えている人で、彼が誘ってくれた『ダイアログ・イン・ザ・ダーク』は、私にとってまさにそういう体験になりました。

 『ダイアログ・イン・ザ・ダーク』では八名が一組になって、暗闇の中を周っていきます。
 時期によって内容が異なるらしく、私は以前に体験した友人とは違って、最初に明かりの点いたロビーでアテンドの視覚障害者の方から白杖の使い方を教わりました。ネパール人の男性です。
 メンバーは私と松田さんと友人、それからゼミの課題で体験しに来たという女子大生たちでした。

 まず薄暗い部屋で物の触り方(そっと手の甲で触ってみてから、安全だったら手の平で触る)などを教わり、それから完全に光が遮断された部屋へ通されます。
 真っ先に「無理だ」と思って、心臓が強くドキッとなりました。
 目を閉じても開いても、同じように何ひとつ見えなくて、それでも思わず目をしばしばさせたり、大きく見開いたりしてみながら、鼓動の音が速くなっているのを聞いていました。
 こんな状態じゃ何もできない、と弱気になります。
 
 実際にちょっと歩くだけでも大騒ぎです。
 施設の中だから安全だとわかっていても、もしこれが外だったらと思うと、気が気じゃありません。
 白杖で前方を確かめていても、突起した何かに顔を打ち付けるかもしれませんし、壁沿いを歩こうにも、もしこれが施設の壁じゃなければ安全かどうかはわかりません。そう思うととても怖いのです。
 誰かとぶつかるのも怖いし、みんなとはぐれるのも怖いし、夢中で「たまです! 歩きまーす!」と大きな声を出しました。
 それぞれが自分の名前と行動を主張しながら、存在や位置を確認しあって列になるのです。慣れてみると、これが意外となんとかなるもので、最初は悲鳴に近かったみんなの声が、次第に嬌声へと変わっていきました。

 それから私たちは暗闇の中で、いくつかのことを成し遂げました。
 ほとんどが日常生活ではなんでもないような簡単なことです。でも真っ暗闇の中では、どれもこれもが偉業になります。

 たとえば大きなボールを使ったキャッチボール。中に鈴(?)が入っていて、転がすと音が鳴るボールです。
 これをみんなで輪になって転がし合うのですが、絶対に暗闇でボールが行方不明になるだろうと思いました。誰からのボールも受け取れないし、誰にもボールを受け取ってもらえる気がしません。
 でも、まず女子大生の子が成功しました。私の番で紛失したら大変だと、手を叩きながら「たまです! こっちです!」と声を張り上げて、必死にボールの音に耳を澄ませます。鈴の音が大きくなって近づいてきて、すっぽりと私の手に収まりました。思わず歓声を上げます。みんなからも、わっと歓声が上がりました。
 それから次に受け取る子の声の位置を頼りに、手探りでボールを投げます。
 また歓声が上がって、ボールが無事に届いたことがわかりました。

 目が見えないってことは、目が見えないってことだと、頭ではわかっていても、こうして暗闇に放り込まれてみないとわからないことは無数にあります。
 ただのボールだけれど、もっと大事な物を受け取ったような、自分の存在ごと受け止めてもらったような、キャッチボール以上の感動がありました。

 こうして私たちは暗闇で大きな声を出したり、手を叩いたり、大きな音を出し合ってコミュニケーションをとりながら、電車に乗ってみたり(ホームと電車の間に落ちないかとても怖い)、祖父母の家に遊びに行ってみたり(靴を脱いで居間に上がるだけで大仕事)、そこで置き手紙を書いたり(難しすぎ)、喫茶店に行ったりしました。

 喫茶店はやっぱり席に着くのも一苦労でしたが、案内してくれる店員さんの優しさが身に沁みました。
 席に座って落ち着いてみると、手足の感覚や、耳や、心が研ぎ澄まされていて、目が見えなくても現状を楽しめている自分に気づきます。
 はじめは自分の中で、小学生の頃と同じ体験をしないようにと気負っていたのかもしれません。それが夢中になっているうちに緊張がほどけて、変に気負うよりも、この状況を楽しむことが大事なのだと気づかせてくれたように思います。
 熱いティーカップを受け取る時はまた少し緊張しましたが、アテンドの人が温かい手でしっかりとサポートしてくれて安心しました。本当に心がほぐれるくらい安心しました。
 だって私と同じ暗闇にいるはずなのに、まるで目が見えているようにしっかりと手渡してくれるのです。

 ようやく環境に慣れてきた頃ですが、ツアーは終わりに近づいて、最後の部屋に辿り着きました。
 アテンドの男性が「みんなにクリスマスプレゼント」と言って箱を開けると、そこには小さなライトが入っていました。ほんの数十分しか経っていないはずなのに、すごく久しぶりに光を見た気がしました。

 箱にはさらに八枚の手紙が入っていました。
 私たちより先に来ていた、知らない誰かからの手紙です。

 ライトのそばに近づくと、手紙には「happy day」という文字の近くに、猫のイラストが添えられていました。猫の顔は福笑いみたいにずれていたけど、愉しい気持ちが伝わってくる手紙でした。
 私は置き手紙に「Merry Xmas!! 幸せな日を」と書きました。書いたものは見えなかったから、やっぱりうまく読んでもらえるかはわからないけど。

 最後に扉を開くと、そこは元いた明るいロビーでした。
 先頭に立って明るい部屋に吸い込まれていくアテンドの方の後ろ姿を見ながら、あの部屋に行っても、彼の視界にはさっきまでの世界が続いているんだと思ったら、不思議な気持ちになりました。