暗闇の中で明るく生きる

 アテンドの男性が慣れた様子でロビーの椅子に座ると、キャッチボールをした時のように、私たちもみんなで輪になってソファに腰かけました。
「どうだった?」と彼が体験の感想を求めます。
 さっきまで大きな声を出して明るく笑い合っていた女子大生たちは、黙って誰から話し始めるか顔を見合わせて探っている様子でした。

 その間もアテンドの男性は優しい表情で私たちがいるあたりを見渡してくれていたので、誰かが声を上げなければ彼には何が起きているのかわかりません。
 それで私は自分が何を言いたいのかまとまらないまま、いつか新宿駅で出会った男性の話をはじめました。
「適切に安全に寄り添いたかった」
 そう言うと喉がつかえて、でも私が話したいことはもっとほかにもあって、言葉にならない様々な感情がチューニング中のラジオの音みたいにばらばらに流れ込んできて泣いてしまいました。
 今日ティーカップを手渡してもらった時のように、私もできる人でありたかった。
 彼は私が泣いても驚いたりなだめたりすることなく、変わらない優しい表情で私のほうに顔を向けて話を聞いてくれていました。

 私が話したかったけど、ロビーでは言葉にならなかったこと。
 それは最初は怖かった暗闇での時間が、意外にもとても穏やかで心安らぐ体験になっていたことです。
 大きな声を出したり、手を叩いたりしたことで、思いがけず私は童心に帰っていました。
 それから困った時は、スマホなどの視覚情報じゃなくて、知らない人でもまっすぐ頼っていいことがわかりました。それにスマホも時計もない時間はゆったりと流れていて、音や感触や味だけに集中することができます。それは贅沢な時間でした。
 何よりも暗闇では人の顔色をうかがうことなく、言葉だけを純粋に信じられる潔さがありました。

 アテンドの男性は代わりに、ネパールに帰った時のことを話してくれました。
 ネパールに帰る時も、彼は実家で大きな声を出すそうです。そうするとヤギたちが喜んで近づいてくるのだと言います。
「実家に帰っても大きな声出す大人いないでしょう?」
 だから、子どもみたいに賑やかな彼がやって来ると、ヤギたちは遊んでくれると思って喜ぶのだと言います。

 彼は暗闇の中で明るく生きています。
 一方で私は相変わらずお互いに顔色をうかがって黙ったままの女の子たちが気になっていました。
 そして一度気になると、「どうしてこの子はこういう服装をしているんだろう」とか、「この服を選ぶってことはこういう感じの性格なのかな」とか、「この子とこの子は意外と仲が良くないのかな」と見た目の雰囲気で判断しようとしてしまったり、「私が泣いてしまったことでみんなを話しづらくさせてしまったかもしれない」と表情をちらちら見てしまったり、さっきまで考えていなかったことが次々と気になりはじめたのです。

 暗闇に入る前にはなんでもないと思っていた(なんでもないとすら思っていなかった)ことが、実は日々のストレスになっていたことが浮き彫りになってしまったのです。
 私は普段、なんて窮屈に生きていたんだろうと思ってしまいました。

「私は居るよ」と伝えたい

 帰りの電車は帰宅ラッシュで混雑していました。
 もし目が不自由だったら、と想像しながら歩くと、怖いことでいっぱいです。

 でも同時に、殺伐として見える電車にも秩序があって、ほとんどの人がスマホに目を落としてはいるけれど、そのまま器用に、降りる人に空間を空けたり、空気を読んで場所を入れ替わったりしています。
 私もさっきは窮屈に感じてしまった「顔色をうかがう」や「空気を読む」といった行為は、やり過ぎると悪い風に受け取られがちですが、そもそもは人を気遣うための行為です。
 そしてつらい満員電車でも、人々の周囲を気遣う資質は発揮されているのだなと思います。

 誰かが書いてくれた崩れた手紙みたいに、私が書いた読めるかわからない手紙みたいに。きちんと伝わっているかわからなくても、実は気遣いが世界には溢れているのかもしれません。

 結局、私はどうしたら適切に安全に他者をサポートできるのかわかりません。
 目が見えない人に限らず、誰がどんなことで、どんな風に世界を見ながら困っているのか、すべてはわからないからです。

 でも、適切に安全にサポートするという気持ちを持ちながら、常に開いていたいと思います。
 寄り添うよりも一歩手前くらい。もっとオープンに、ただ「私は居るよ」という態度でいたいです。
 いつもと変わらずにいて、なんでもない話をして、困った時にはそっと耳を傾けたり、そばに居たりできる人になりたいです。
 相手を完璧に理解できなくても、適切にできなくても、それでも優しい表情で待っていてくれたアテンドの男性みたいに。

Text/姫乃たま