元通りにならない人生を生きる。いまこの瞬間を待ち時間にせずに

永遠なるものたち026「喪失と再生」

by Roman Kraft

 私は変な地下アイドルだったかもしれない、と後になって思うのは、舞台で歌っている時、ずっと恥ずかしかったからです。
 それも初めてのライブだけじゃなく、卒業するまでの10年間ずっと。
 どうしてこの空間で私だけが歌っているんだろうという、恥ずかしいような、申し訳ないような、あの頼りない気持ち。
 観客はきちんと歌を聴いているのに、私だけが立って歌っている。その状況の奇妙さは、月に何十回とライブをしても、不意に私を冷静さへと引き戻しました。

「人前で歌うってどんな気持ち?」とか、「拍手されると気持ちいい?」などの質問に素直な気持ちで答えると、人は意外そうにするけれど(中にははっきり「変!」と言う人もいた)、私はみんなが黙って聴いているのに、自分だけが歌っているのは、やっぱり恥ずかしく感じてしまうのです。

 ライブ中は、頭の中でいろんなことが起こります。
 舞台にいると演奏が流れて、照明も目まぐるしく変わって、観客の表情も会場の雰囲気も絶えず変化していって、歌いながら一瞬ずつ様々な考えや感情が私を通り抜けていきます。
 歌詞や踊りのこと、観客や関係者のこと、自分のこと。歌いながらもう次の曲について考えている時もあれば、マイクを通じて返ってきた自分の歌声に何らかの感想を持つこともあります。
 たしかに拍手をもらうと安心するし、退屈している人がいないか心配だから、客席に楽しそうな表情を見つけると嬉しくなります。
 でも一番強く思い浮かぶ、というより、どんな時も感情の根底にあったのは、あの奇妙に冷静な恥ずかしい気持ちです。

 だから自分の歌声に対する感想は、だいたいいつも「なんか頼りないな」でした。

体が動かなくなる心の病気

 2019年に地下アイドルを卒業してすぐ、病気で身動きが取れなくなりました。
 文字通り、突然倒れて痙攣したり、起き上がれなくなったり、体が思うように動かなくなるので、しばらく精神的な病気だと気づかなかったほどです。

 あっという間に食事や入浴などの日常生活が困難になり、文章を書いたり、自分が書いた文章でも読んだりできなくなりました。書いてあることの意味が、わからないのです。
 こんな自分が舞台で歌っていたなんて、とても信じられません。
 声を出す体の力も、観客の視線を受け止める気力も、外に出て会場に辿り着ける自信すら、無くなっていました。

 また元通り歌ったり書いたりできるようになるのか不安で、不安になると余計に体が動かなくなって焦り、不安と焦りが寄せては返して、じっとしているのに気持ちは休む暇がありませんでした。

 次第に心は、気まぐれに一時停止した海のようになりました。
 波は不自然な形で固まり、風はどこへも吹かず、日差しも木陰も揺らぐのをやめて、砂浜の砂一粒すら微動だにしない。何も聞こえず、何も感じられない、海。
 感情はしばしば波の様子に例えられるけれど、一時停止した波は凪いでいる時と違って、ひどく奇妙で不穏です。
 ただぴたりと止まっている、その不気味さ。

 私は心がそうなると、体も同じように動かなくなって、何も感じられなくなります。
 頭のてっぺんから爪先まで、全身が泥のように重たくなって、脳が、内臓が、全部出来損ないの泥だんごになってしまい、言葉も思考もまとまりを失っていくのです。
 最も困るのが手脚の痺れで、そうなると為す術もなく横たわりながら、自分を袋から放り出された油粘土のように感じます。プラスチック製の粘土板に乗せられた、形を成していないしっとりとした重たいかたまり。

 痺れた手で触れると、床も、コットンの掛布も、自分の肉体も、一様にうっすらと痺れていて、何に触れているのかよくわかりません。
 どうして自分が生きているのかも、よくわからなくなります。
 それは、なんのために生まれてきたのかといった高度な疑問ではなく、自分がいま生きていることへの純粋な疑問です。

 いま、私は生きているのだろうか。

 体も心も動かず、ただ重たく痺れているばかりで、ちっとも生きてる心地がしません。

 ようやく起き上がれるようになっても、なんとか立ち上がれただけのことで、私はひどく不自然な物体のままです。
 そういう時に鏡を見ると、とても驚きます。
 まず、体が動いていることに。それから見た目が、ゾンビとか、一目で病人のそれだとわかるようになっていないことに。
 すごく普通の人間に見えるのです。
 信じられない、絶望的な思いで、私はそれを見つめます。

 そのまま外へ出て歩いても、話しても、笑っていても、誰もそのことには気づきません。私が本当は死んだまま動いていることを、誰も知りません。
 何度死んでもなぜか生き返ってしまうゾンビのように、自分が生きているのか死んでいるのかわからず混乱していて、足取りは重く、息は浅く、体は痺れているのに、誰にもわからないのです。
 やがて痺れや重たさを感じているのが普通になって、自分でもそのことがわからなくなり、つらい状態であることも忘れてしまいます。

居ない人の存在を感じ取ろうとする

 つらさを忘れた気になっていても、時々体のほうが思い出したように崩れ落ちる時があって、硬い地面に転がったまま、ぽっかりと開いた真っ暗な穴に引きずり込まれそうになります。
 無意識に発せられている自分の呻き声が外から聞こえて、涙やよだれが頰からだらしなく地面に広がっていくのが間近に見えます。
 手脚は痺れていて、地面に押し付けられている頰の、生温く濡れている部分だけが生々しく感じられました。

 生きている実感を失ったまま過ごしていると、現状から這い上がる気力と思考も根こそぎ奪われていきます。
 あんなに元通りになれるか不安だったのに、自分を健やかにする気持ちも力もなくなって、真っ暗な穴に飲み込まれてしまうほうが自然に感じられてくるのです。
 日頃からそれではだめだと気をつけていても、いざという時、抗いようのない速さと強さで絶望はやって来ます。
 どうでもいいやと諦めた瞬間、一気に向こう側へ引きずり込まれる感覚があって、悪夢から飛び起きた時のようにぎゅっと全身が緊張しました。
 辛うじてこっちの世界に踏みとどまれても、体は依然として痺れたままであることに疲れ切ってしまって、また絶望に飲み込まれそうになります。それをひとりで何度も繰り返します。
 でもあそこを越えたら二度と帰って来られないことが、直感でわかるのです。
 脳の中に真っ暗な、向こう側としか呼びようのない部分があって、ブラックホールみたいなそれが口を開けているのを、私は自分の中に時々見ます。

 優しい言葉も、励ましの言葉も、助言も誹謗中傷も、何ひとつ受け取る余裕がなくなった時、私の気持ちを支えていたのが、顔も知らない人たちの存在でした。
 体が思うように動かなくなってから、会ったことはないけどどこかに居る、自分と同じような人々に思いを馳せるようになったのです。
 ただ黙って横たわることしかできない日も、泣き出すこともできずになんでもない顔をして街を歩いている時にも、同じように黙って戦っている人たちを思うと、身を寄せ合っているような頼もしい気持ちになりました。
 苦しんでいる事情も症状もそれぞれ違うけれど、同じように戦っている人たちが居る。その事実だけが、私の気持ちをやわらかく包んでいたのです。