大切な人を抱きしめられない病気

 一年ほど自分の病気にかまけているうちに、未曾有の感染症が世界に忍び寄っていました。

 世界中が発熱したようになって、たくさんの人が亡くなって、それでも無理を押して働かなければいけない人や、やりたいことが思うようにいかなくなってしまった人、社会の動きが停滞して困っている人や、実はほっとしている人や、ともかく誰も彼もがこれまでとは違う生活を送ることになりました。
 自分には関係ないと思っている人にとっても、世界中どこもかしこも未知のウイルスが蔓延しているというのは、決して居心地のいい状況ではないでしょう。

 大きく変わったのは、日常から人と人の体が引き離されたことで、気の置けない人たちと気軽に会ってだらだら喋ったり、悲しむ人の肩を抱いたり、大切な人を抱きしめたりできなくなりました。
 誰かに会う時もマスクを着けて、なるべく触らないように、近づかないようにしなければいけません。
 これまで大変な時、つらい時を乗り越えるための方法だったことが、危険な行為に変わってしまったのです。

 あれだけ復帰できるか悩んでいたライブハウスも一時休業になり、個人的には照れてしまって行く機会があまりなかったカラオケ店も軒並み営業を停止しました。
 居酒屋や、喫茶店や、街からどんどん明かりが消えていきました。

 長い時間をうちで過ごしながら、いまは会えない人たちや、会ったことはないけれど、同じように慣れない日々を過ごす人たちのことを想像していました。
 その人たちもまた、会ったことのない人々について考えているのかもしれません。
 世界中の人々が、居ない人の気配を感じ取ろうとしている様子が頭に浮かびました。

 突然病気が流行って、元通りになれるのか心配しているうちに「新しい生活」を余儀無くされてしまった世界の状況が、去年からの自分と重なるようです。

居ない人の存在/居る人の存在

 ほどなくして、ライブハウスが無観客でライブやトークイベントを配信するスタジオのような営業をすることが増え、私にもそうしたイベントから声がかかるようになりました。

 最初は見慣れたライブハウスの、見慣れない光景に唖然としました。
 客席には配信用のカメラが数台と、スタッフさんの姿が数名。
 舞台からの景色は事前に想像がついていたけれど、観客が座っているはずの場所に観客がいないというのは、実際に見てみるとこんなにも喪失感があるものかと驚きました。
 客席というのは、観客が座ることを前提につくられているのだなと、当たり前のことをバカみたいにしみじみ思ったものです。

 おかげで私は舞台に立ってもまた、居ない人たちの存在を頼りにすることになりました。
 目の前に居るはずだった、いまはここに居ない人たち。

 画面越しとは言え、イベントが観られることに視聴者からは喜びのコメントが寄せられましたが、無観客配信が珍しくなくなってくると、ライブ映像をリアルタイムで配信する意味を問う声も上がってきました。
 たしかに収録のほうが、音声や映像のトラブルも少なく、撮り直しもできるので演奏のクオリティを保つこともできます。
 それは間違いなくひとつの正解で、でもそのことについて考えれば考えるほど、どうしていままであらゆる場所で、あらゆる時刻に有観客のライブが開催され続けてきたのか改めてわかるようでした。

 歌っている人と聴いている人が同じ時間に同じ場所にいるというのがどういうことなのか。
 かつて日常だったあの空間が、奇妙なわけじゃなくて、どれだけ特別だったのか。急速に私の中で明確になっていくのを感じました。

 頭で何を考えていても、心が何を感じていても、体はその時そこにしか存在することができません。
 有観客のライブでは、歌う人の体も、聴く人の体も、その場に等しく存在しています。
 歌は、そこにある体が鳴っているということ。聴くのは、目の前で鳴っている体を感じることだったのです。

 私だけが立って歌ってはいるけれど、聴いている人の体感は、ほかの聴いている人に影響して、さざ波のように互いに寄せては返していました。
 それが歌っている私に影響して、また歌に変わって空間に響いていきます。
 それが感動的でも、つまらなくても、楽しくても、寂しくても、とにかくその場にいる全員が、その空間をそれぞれに体験するのです。

 ライブの空間は、そこに存在する人たちによって出来上がっています。
 それはあまりに当たり前のことで、改めて認識せずにいたことでした。

 これはライブハウスだけの話ではありません。
 この2年あまり不要不急の外出と接触を避けるため、仕事でもプライベートでも、以前より明らかに多くの電話やビデオ通話をすることになり、「はやく会いたいね」と言い合ってはいろんな人との通話を終えました。
 どれだけ人と話しても、どこかで気持ちが満足しませんでした。
 喋りたいことよりも、同じ場所にいて、相手の存在を、気配を、感じ取りたい欲求のほうが強かったからです。
 息遣いや、体温や、人が居ることによって、無言でも絶対に変わってしまうその場の空気を全身で受け止めたかったのです。

 それがどれだけ特別なことか、いまなら世界中の人が知っていると思います。

元通りにならない人生を生きる

 こうして文章を書ける日もあれば、書くのを中断したまま、この文章の意味がわからなくなる日もあります。

 地下アイドルじゃない自分の人生を生きてみたくて卒業したのに、気づけばいつも元通りになることにこだわっていました。
 病気が悪化してからずっと、前みたいに書いたり歌ったりできるか不安だったのです。
 未来について考えるとき、なぜかそうやって過去の自分を持ち出して基準にしていました。
 でも、そこにはあまり意味がありませんでした。

 世界は望み通りにならないし、自分のことすら思い通りにならないけど、どうであっても時間は進んでいて元に戻ることはないから、想像と違う状態の中でも、私は自分で自分の行動を選び取っていくしかないのです。

 うまくいかない日の自分にも、なんとか納得したい。
 動けなくなってしまったんじゃなくて、私は自分でいまこの体を休ませているんだと思うようにしたい。
 私はきっと人生に対してひどく貧乏性で、何ひとつ無駄だったと思いたくないのです。

 何もかもが無駄に感じられて、生きてる意味も、自分が生きてるのかすらわからない時間も度々訪れます。でも、何度でも無駄じゃなかったと思い直します。
 そうしないとあっという間に押し流されて、黒い穴に飲み込まれてしまうから。

 残念ながらいまはまだ満員のライブハウスで、誰もが開放感溢れる気分を味わえる状況にはなっていません。有観客のライブでも、人と人との距離を取りながら、マスクをして声を抑えて、どこか緊張した心持ちのまま楽しんでいると思います。
 私自身もまた舞台で歌えたらと思いながら、まだ人前で歌える状態にはなっていなくて、そわそわした気持ちです。

 いつかまた舞台に立って歌える日を、客席で人々が再会して声をあげて笑ったり、遠慮なくグラスをぶつけ合って乾杯したりできる光景を待っています。
 でも、それまでの日々も、待ち時間だと思わずに過ごしたいです。
 生きているのに何も感じられない時間はとてつもなく怖いから、できる限り、毎日のその時々を感じながら生きていたいのです。

 私の思考は過去や未来へ行ったり来たりするけれど、体はいまここにしか存在していません。身動きが取れなくなって、発見したのはそのことです。
 体があるせいで辛いけれど、こうして文章を書けるのも、歌えるのも、文章や歌を見聞きして心が何かを感じるのも、体があるからできていたのかと、いままでは考えてもみなかったことを、やっぱりしみじみと思います。

 音楽や文章に心を動かされたいと新鮮な気持ちで思い、これからも音楽や文章をつくる人であり続けたいとも思うようになりました。
 いきなり元気や勇気を投げつけるようなものじゃなくて、見聞きした人がもともと持っている気力をほんの少し高められるような、そういうものを作れるように、手を動かしながらいつも願っていようと思います。

 私は自分の体が思うように動かなくなって、世界規模の感染症でライブハウスの観客がカメラに代わってしまうまで、つまりいろんな形で日常から身体性を失うまで、体のことなんて置き去りにしてきました。
 いまはマスクを外して会いたい人に会える時が来たら、全身で思いっきり相手の存在を受け止めたいです。
 観客の姿が戻った舞台に立てる時は、もう次の曲のことなんて考えずに、過ぎ去った頼りない歌声も省みずに、楽しそうな人も、退屈そうな人の気配も、全身で感じとって歌いたいです。

 だからといって歌うのが恥ずかしいことに変わりはないのですが、私にはいかなる時も歌ったり書いたり感じたりできる体があって、それが出来なくなってしまう日があっても、いま生きているんだなと思っています。

Text/姫乃たま