「書きたい、何か書きたい」というピュアな衝動から自分の性癖に気づけたりする

by Zane Grunska

配信されるたびに良くも悪くも話題になる『バチェラー・ジャパン』、あるいは『バチェロレッテ・ジャパン』。おそらくこれを読んでくれている人の中にも、見たことがある人は多いのではないだろうか。かくいう私もなんだかんだ『バチェラー』のシーズン1〜3、それから『バチェロレッテ』も見ているんだけど、前に一度、この番組について友人と議論をしたことがある。何を議論したのかというと、「バチェラー」になり得る、独身男性の像についてだ。

たくさんの個性豊かな独身女性によってその婚約者の座をめぐって争われる「バチェラー」の男性は、容姿端麗で、さらに社会的地位も経済力もあるという、いわゆる「スパダリ(ハイスペックな男性のこと。スーパーダーリンの略)」であることが毎回のお約束だ。カクテルパーティーだの、ヘリやクルーザーでのデートだの、沖縄だの温泉だの、とにかくわかりやすくお金を使って恋愛リアリティショーを繰り広げるのがこの番組の見どころなので、「バチェラー」はそれらの舞台が似合うハイスペックなイケメンでなければ盛り上がらない……ような気もするが、本当にそうだろうか? 

視聴者的には毎週その顔を拝むことになるので容姿が整っている人のほうが望ましいのはそうだと思うけど、社会的地位や経済力は、本当に必要だろうか。たとえば、「いろいろあって無職だけど料理がすごく得意なイケメン」みたいな人を「バチェラー」に据えたら、この番組は盛り上がらないのだろうか。

そのとき、友人は「ハイスペイケメンでないとダメだと思う」、一方私は「無職イケメンでも楽しいと思う」の一点張りで、結論は出なかったのだけど、ぜひ他の人の意見も聞いてみたい。

川上弘美『神様』と、「書きたい、何か書きたい」

話は変わって、今回語らせてほしい本は川上弘美の短編集『神様』だ。私のお気に入りは、この中の『花野』と『春立つ』。どちらもこの世の者ではない異界の者が現れて、登場人物と対話する。『花野』は5年前に交通事故で死んだ叔父が、『春立つ』は雪の降る季節にだけ現れ春が来ると消えてしまう男性が、それぞれ主人公や居酒屋の女将に話しかけるのだ。特に『春立つ』は、冬の間にしか会うことのできない異界の男性に恋した女将が、寂しさから一度別れる決意をするものの、その後に訪れるラストで「まあ人生、不毛だと理屈ではわかっていてもそうなるよね……」という感じになるので、私はかなり好き。

さて、小説自体もだが、注目してほしいのはこの短編集『神様』の著者によるあとがきだ。なんでも、パスカル短篇文学新人賞を受賞した表題作の『神様』を、川上弘美はお子さんがまだ小さい頃に「書きたい、何か書きたい」という衝動から2時間で一気に書き上げ、「書くことって楽しいことであるよなあ」としみじみ思ったのだという。

前回のコラムでとある作品の2次創作の沼に落ちてしまったことを告白した私だが、2次創作の世界には、「書きたい、何か書きたい(描きたい)」が溢れている。誰にも求められていないものを、書き上げたところでキャリアにも何にも役に立ちはしないものを、創作したい気持ちで溢れている。まだ20代だったらそんなものくだらないと吐き捨てていたかもしれないけど、30代である今は、ピュアな衝動からくる「書きたい」って、すごく貴重で大切にすべき感情だということがわかる。事実界隈には、自らの創作やTwitterでの交流に救われている子育て中の女性、キャリアに悩む女性が、本当にたくさんいるのだ。上手下手は関係ない。創作は救いである。