精液の不浄性
出産や月経が血の穢れとして不浄視されていたことはご存知かもしれませんが、精液も不浄視されていたという見解が存在します。しかし、時代とともに血一般の穢れは、女性の血の穢れに焦点が当てられるようになっていきます。「仏教と女の精神史」(吉川弘文館)によると『光孝実録(こうこうじつろく)』には、仁和二年(886年)九月七日、伊勢斎宮の禊(みそぎ)のときに月経が起こったことが記録に残されています。それほど血の穢れは忌むべき事柄だったのです。
わたしが中世の女性の血の穢れについて野村育世氏のご著書『仏教と女の精神史』(吉川弘文館)熱心に読んでいたとき、心拍数がドッと上がる内容が飛び込んできました。それは「刈萱(かるかや)」という説経節にて、御台所が夫に懐妊を告げる台詞。
「女の役とて、夫の不浄を受け取って、胎内に七月半にまかりなる、水子を受け取り申したよ。」
御台所は夫の不浄、つまり精液を受け取り懐妊したと言っているのです。野村氏も穢れや不浄は常に女の側に帰せられるマイナスの価値であると考えていたようで、男の穢れを受け取り女が懐妊、最終的に女は産穢を帯びる存在になるということに衝撃を受けたと書いておりました。
精液の不浄視について『仏教と女の精神史』では「不浄が漏れて胎内に入ることで、女性は難産の苦を受ける」と他の書籍も引用しており、血盆経(※)が流布した時代に男の側を不浄とし、女が産穢を受けるという考えにはじめて触れました。そもそも精液が不浄視されていたのかなどの詳しい内容は、是非『仏教と女の精神史』を読んでみてください。
(※)女性が前世の罪業により穢れ多い女身に生まれ、生前に血穢を流して犯した罪により、死後には血の池地獄に堕ちるとする信仰。中世後期の室町時代には日本でも流布するようになった。
精液を股から吸い取り滋養にする
『おさめかまいじょう」は、本家を京都にもつ道後の遊女屋「京かま」に宝暦の昔より伝わる秘伝書です。女郎屋の経営者の虎の巻であり、女郎の扱い方から女郎の性戯テクニックまで幅広く記録されています。この書物には毎日客をとらなければならない女郎たちが身体を弱らせて働けなくならないようにするコツも書かれており、そのなかでも興味深い内容がありました。
おやま(女郎)の働きに、体を損せずは秘伝あり。即ち、まら(男根)のき(気)を、おめこ(女陰)吸いとりて、おのれの体のじよう(滋養)と、するなり。まら、き、出る時は、まら震い立ちて、はるなり。凡そ四ツ五ツ、たたくなり。直ちに、腹空気出して、ひこめ、気を抜き、おめこ開きて待つなり。
最初に紹介した『医心方』に見られる房中術では、男性が女性から”気”をもらう方法をメインとして紹介していました。しかしながら『おさめかまいじょう』では、女郎が客の男性から“気”をもらう、つまり精液をもらう方法が書かれています。
さねびらにてまら腹をくわえ、しめる可からず。余分の水は流れ、たまり濃き水、おめこ(女陰)しん底に入るなり。これ、精、体にまわりて、丈夫となる。
このように気を取りこみ、体に気を巡らすという方法も道教の房中術と似ています。そしてこの気を取り込む際、女郎は決して「気を遣る」ことをしてはならない、つまりオルガズムに達してはならないとあります。「気を遣る」は語の意味でそのまま意味を受け取ると、女郎は客の男に自分自身の気をあげてはならないという意味にもなります。男性客の精液を女陰に取りこむと女郎が妊娠すると思うのですが、そのときはどうするのか書かれていませんでした。
精気を惜しみ射精を自らコントロールしたり、交合により目に見えない「気」を取りこみ滋養とすること、そして精液の不浄視など精液にまつわる様々な時代の捉え方を紹介しました。生理的な現象に対し、意味づけを行い、最終的に不老長寿などの達成したい目的を果たしたり、人々の言論や行動までも左右する眼差しは必ずしも筋が通っているものではありません。時に矛盾をはらむため、人間っておもしろい生物だなと思う今日この頃です。
〈参考文献〉
「気」の思想から見る道教の房中術 坂出祥伸・梅川純代 五曜書房
仏教と女の精神史 野村育世 吉川弘文館
おさめかまいじょう 好豆書肆太平書屋版
Text/春画―ル
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わたし、OL。推しは、絵師――美術蒐集はお金持ちだけの特権ではない。
美大に通っていたわけでも、古典や日本史が好きだったわけでもない「わたし」が身の丈に合った春画の愉しみ方をユーモアたっぷりに伝える。自分なりの視点で作品を愛で、調べ、作品を応用して遊びつくす知的冒険エッセイ。個人所蔵の珍しい春画も多数掲載。
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