知性と理性と愛情をもって触れよう
もちろん「相手を大切にして行う和合は長生きの楽しみとなる」という考え方があるとはいえ、それが当時の性の寛容さ、おおらかさの証拠とはならない。
いつの時代だって消費の対象となるひとが存在するのだ。
それは女性に限ったことではない。江戸時代には陰間茶屋というものが存在し、少年たちは春を売ったのだ。客は男性も女性もいた。
冒頭で書いた「みんなの春画」、それはつまり「みんなの性」だ。
春画に込められたこれらの考えは時代錯誤でしょうか。今は必要がない考え方でしょうか。
もちろん当時は夜這い、陰間茶屋、遊郭、妾などの文化や慣習があり、今とは大きく異なる。当時の感覚をそのまま現代にリンクすることは難しい。
しかし、春画が単なる即物的な興奮を表現したもの、ごく一部で研究がされている歴史的な資料だけのものならば、春画展の開催が大きな反響を呼ぶことも、春画展のドキュメンタリー映画がつくられることもなかったと思う。春画は時代の流れとともに完全に忘れ去られていたと思う。
いまだにわたしたちの感情に響くものがあるのは、自分の人生で得た経験や価値観とリンクするものがあるからではなかろうか。
「相手を大切にしよう」や「性と笑いは密接であり、どちらもわたしたちの喜びなんだ」、「誰にでも性欲があるんだ」など、春画を見て感じること。それは人により様々だと思うが、これらは頭の中で言葉として理解するのではなく、身体が反応し感情として湧き上がってくる。
わたしは2年前から春画を国内外に発信しはじめ、たくさんの感想をもらって元気をいただいた。そして元気をもらうとともに、誰のことも傷つけずに生きるにはどうしたら良いのかと考えるようになった。かつ、自分らしく生きるためにはどうしたら良いのかも。
そのためには先ず、知性と理性と愛情を持って身近なひとから大切にすることが必要だと思った。
そして春画を見ることはわたしにとってはYouTubeのモーニングルーティンを観ることや、ファッショニスタのカバンの中身を雑誌で拝見する感覚に似ている。
性を楽しみたいし、自分の生活への前向きなエッセンスが欲しいのだ。
今日も今日とて春画を見る。
知性と理性と愛情を!
Text/春画―ル
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