「この人、もしかして大物かも?」

「臨月の妻が救急で唸っている最中に、のんびりセーターの毛玉を取る」なんてしょうもないことかもしれないが、どっしりと座っていた夫は、妙に頼もしく見えた。そう思うと、なんだか「この人、もしかして大物なのでは?」という気もしてくる。

わたしは神経質で完璧主義な側面があり、すぐ慌ててしまうのだが、この『毛玉取り事件』以降、夫を見る目が少し変化していった。普段の生活においての夫は、ややおっちょこちょいで、落ち着きがなく、へんなところでボーッとしているが、いざとなると肝の座り方が違う。本質を注視して、それ以外の無駄なことをしないでいられる度胸があるのだ。

それは出産に立ち会ってもらったときも同じだった。運悪く、わたしの出産と夫の仕事の締切が重なってしまったのだが、やや焦りを見せつつも、夫は両方ともやり遂げた。
陣痛でのたうち回るわたしの横で原稿を書き、修正に対応し、進行を待つ間にわたしの手を握り、励まし、腰をさすってくれた。なんならわたしの病院食も食べた(わたしは食欲がわかず、食べられなかった)。

陣痛のさなか、「この人、もしかして大物なのでは?」という思いは、確信となった。
夫は言葉少ないながらも、必要なことはきっちり医師に説明を求めてくれていた。「自分のことは自分で」と強く思っていた自分にとって、その姿はとても頼もしかった。わたしがパニックになり、慌てて取り乱そうと、彼はどっしりと毛玉を取っているような男なのだ。

もういっそ全部ゆだねて、甘えてしまっても大丈夫なのではないか?

陣痛の痛みで脂汗をかきながら、夫の名前を呼び、手を握ってもらった。「自分のことは自分で」と思っていたのに、汗を拭いてもらい、何度も飲み物を買いに走ってもらった。夫はわたしが遠慮して言えないことを助産師にオーダーしてくれ、いまの状態の正確な説明を求め、何度も励ましの言葉をかけてくれた。

こうして書き並べてみると「当たり前だろ!」と思うようなことかもしれないが、わたしにとって「他人に自分のことをしてもらう」のは非常にハードルが高く、申し訳ないと思う気持ちが強かったのだ。

でも、夫はそれをやすやすと引き受けてくれる。そうか、年上だからとか年下だからとかは、関係なかったのだ。お互いがお互いを思いやり、相手のために動くことをいとわない。これがパートナーなのだ、と改めて思えた。そんな殊勝な気持ちを抱えながらわたしたちは陣痛を乗り越え、かわいい女の子を授かった。2018年、初夏だった。

パートナーにもいろんな「顔が」ある

無事子どもが生まれ、父親と母親になってみてどうだったかというと、いきなり「頼もしい親」にはなれないものだなあと思う。夫はまだ頼りない面がたくさんあるし、わたしも同じだ。「自分のことは自分で」と自分を追い詰め、変に強がって頼れない性格は、いきなり変わらない。しかし、出産を通じて、多くのことを夫に甘えられるようになった。夫も夫で、甘えるわたしの重さに耐えられないときもあるようだが、おおむねどっしりと胸を貸してくれる。

そうしてみると、パートナーには「恋人」「夫」「父親」それぞれ違った顔がある、と思うようになった。わたしは今まで彼の「恋人」としての顔ばかり見てきた。それは優しくておおらかで、わたしを大切にしてくれるが、頼りなくまだ幼い男の子だった。けれど、これからは『毛玉取り事件』のような出来事を通じて、「夫」、そして「父親」としての彼の顔も見ていくことになるのだろう。それってなんて素敵なことだ!と思う。

陣痛のさなか、なかなか娘が出てこず痛みに耐え続けている間、眠気と疲れで意識があやふやになりながらも、夫にこう言ったのを覚えている。
「いっぱい幸せになろうね」。強がりも照れも自制心も、痛みに耐えるため全部すっ飛ばした状態で出てきたあの言葉は、間違いなく本心で、夫にずっと伝えたかった言葉でもあった。

わたしたちは「いっぱい幸せ」になるために、お互いの様々な顔を見せあって、たまにはぶつかりながら、パートナーとしての形を作っていくのだろう。もちろんそのすべてが「理想的な顔」ではないかもしれないけれど、それはそれでパートナーシップの醍醐味だと思うのだ。

娘は1歳になった。わたしたちが「親」としての顔を担う機会も、さらに増えていくだろう。これから夫がどんな「顔」を見せてくれるようになるのか、とても楽しみだ。

Text/はせ おやさい

はせ おやさい
都内在住・一児の母。はてなブログで「インターネットの備忘録」というブログを書いたり、たまに寄稿したりしています。
Twitter:@hase0831