10年で通用しなくなった『高校教師』の純愛
……と、ここまでさんざん羽村と繭の純愛劇を茶化し、ディスってしまいましたが、これは現在の感覚で見るから言えることです。
大切なのは、当時はこの物語がロマンティックなファンタジーとして成り立っていたという事実。
お互いの存在価値を賭けて、ただ無条件に愛し愛されるような関係が、理想の純愛とされていた時代のドラマだということです。
教師と生徒というタブーでリスキーな関係を乗り越え、それでも愛し合うからこそ、2人の純愛はより強いものとして、視聴者を熱狂させました。
ところが、それから10年後、藤木直人と上戸彩のコンビで2003年に制作された『高校教師』の続編は、さしたるヒットもせず“コケた”と言われる結果となってしまいました。
この10年のあいだに何があったのか、答えははっきりしています。
私たちは、“恋愛”が人生の意味や価値、幸せをすべて賭けるほどのものではない、ということを知ってしまったのではないでしょうか。
恋愛は人生を豊かに楽しむための“お祭り”でしかない!?
恋愛は素晴らしい。 恋愛は誰もがしなければならない。 恋愛はほかのどんな人間関係よりもかけがえのないものだ。
そう言って、自分をありのまま受け入れてくれるたった一人との出会いの素晴らしさを、往年の恋愛ドラマは繰り返し繰り返し描いてきました。
バブルが崩壊して、企業のネームバリューや経済力といった価値観がアテにならなくなってしまったことも、背景にあるかもしれません。
私たちは、失った自我のよりどころとして、恋愛・純愛を新たな“絶対的価値観”とするようになったわけです。
でも、実際の恋愛って、もっといいかげんで、不確かで、流動的なもの。
恋愛を自我のよりどころにしてしまうと、負う傷が深すぎることに私たちは徐々に気付いていきました。
今では、恋愛は人生をちょっと豊かに、楽しくしてくれる“お祭り”のようなもの。
教師と生徒の恋愛や、浮気、不倫といった“禁断の愛”も、そんなお祭りを盛り上げてくれる“ギミック”のひとつでしかなくなりましたよね。
恋愛は恋愛として楽しんだうえで、最終的には堅実で安定した人と結婚すればいいじゃない?
そんな時代にあって、勢いで突っ走って心中してしまうような重たくてイタい恋愛に、いったい誰が共感するでしょうか?
そう考えると、愛の神聖さを詩的に語った野島伸司ドラマが、2000年代に入って急速に力を失っていった理由もわかるような気がします。
『高校教師』は、純愛がまだ有効だった時代の、“古き良き寓話”だったんですね。
Text:Fukusuke Fukuda
- 1
- 2