好きな人のためにできる事は限られている
学校では「一緒に帰ろう!」と愛らしく手を繋ぎ、校門を出た瞬間に「あんたの手って手汗すごい」って冷たく手を離す。なにこのツンデレ恋愛。
恋愛には嘘が散りばめられてるとはいっても、全部嘘で塗り固められた恋愛って一体。好きでもない男の子と手を繋ぐ百瀬の葛藤が次第に曝け出されていき、見ていて苦しくなってくる。
あらすじだけ読むと宮崎先輩が超絶極悪人に見えるけど、これがまた爽やかな好青年。ノボルの命を救った過去があり、性格も容姿も最高で、徹子と付き合っていることにも文句のない人。そんな人って高校時代、一人か二人はいた気がする。
“恋人ごっこ”って響きはかわいいけど、大変えげつない。悪い人がいないのに百瀬の心が蝕んでいく。幾ら好きな人のためとはいえ、こんな罰ゲームはないです。
「バカヤロー!大嫌い!でもまだ好きだ!」
早朝の土手で行き場のない苦しみを吐き出そうとする百瀬と、何にもできずに突っ立っているノボル。
好きな人のために行なった遊びは、ここまで過酷なのでしょうか。
百瀬は自分のために生きられるのか?
人物描写に注目したい。ノボルは人間を“レベル”で判断。容姿、性格等でトータルでクラスメイトを格付けし、自らを“レベル2”と卑下する何ともザ・窓際族。そりゃ、学校一のマドンナの徹子を神格化するし、人気者の宮崎先輩の頼み事は断れない。
百瀬は年の離れた幼い兄弟たちがいる。その子たちのために家事をする様から“地元から離れられない感”が漂い、人生を自分勝手に生きられない女の子。誰かのために生きてしまうその性格、境遇が、すべて届かない先輩への想いと相俟って彼女を苦しませている。
こんな二人が手を繋げば当然ドラマが生まれる。ノボルの人間レベルは上がるのか、百瀬は自分のために生きられるのか。好きな人のために生きる事は、彼女に何をもたらすのか。
二人の姿はどこかしら高校時代の断片を見ている錯覚に陥る。普遍的でありながら、カメラが繊細に青春の光と影を映し出す。
耶雲哉治監督の描写はまるで『NO MORE映画泥棒』を作った人とは思えない。あのクネクネカメラマンの怪しい動きが一切ない映像と、優しくて淡い光が救いようのない思い出を照らしています。