チャップリンの映画を観ずには死ねない。頼むから観ずに死なないでほしいです。
むしろ命をちょっとくらい分けてあげてもいいから観てください。なぜなら、そこに人生が詰まっているから。
“恋は人生”であるならば、彼の作品に出会わないのは恋を素通りすることに程近いのです。
チョビヒゲ、山高帽、ステッキ、がに股スタイルの一挙一動がどうしてこんなに笑えて、その後ろ姿は寂しいのだろう。
彼の映画はモノクロームの映像を色鮮やかにさせ、サイレント映画の静寂からたくさんの言葉を投げかけてくる。
あなたがまだ産まれていない頃、世界はチャップリンに酔いしれていた。
決して単なる古典ではない。喜劇王・チャップリンの作品は今でも新しく、観るたびに映画の更新を続けている!
チャップリンの笑いの哲学と失恋の美学『サーカス』
一本目に紹介するのは、1927年に製作された『サーカス』。
これまでドタバタ喜劇一筋で観客と向き合ってきたチャップリンが、初めて観客に寂しげな後ろ姿を見せたサイレント映画です。
ストーリー
放浪者チャーリー(チャールズ・チャップリン)はスリに間違えられ、警官に追われたことがきっかけでサーカスに入団。“ひょうきん者”としてたちまち人気者に。
やがて団長の娘(マーナ・ケネディ)に恋をするが、彼女はイケメン綱渡り師に夢中。チャーリーは彼女を振り向かせようと、人知れず綱渡りの練習に励む。
そんな中、綱渡り師が本番になっても現れず、チャーリーが代役を務めることに――。
笑いの哲学と、笑えない失恋
ほんともう、何度笑わせたら気が済むんですか。
勘違いから始まった逃走劇で、からくり人形に紛れてカクカク動きで警官の目を避けようとするチャーリー。この奇妙な動き、絶妙な間、妙な緊張感よ。笑わない人はいないでしょ。
そもそも、こんなに馬に追われる映画なんて観たことが無い。それも三回も。
ライオンと一緒の檻に入ってしまい、猿に綱渡り中に悪戯され、とことん動物運が無い主人公はマヌケにも程がある。だけど、彼はなぜこれほどまでおバカな役に徹するのか?
そこには、チャップリン独自の笑いの哲学が盛り込まれている。
チャーリーは人を笑わせようなんて思っていない。ただ必死に警官や馬から逃げているだけで、彼は観客から爆笑を得る。一方、必死に笑わせようと芸に励むサーカスの大道芸人たちに観客は退屈する。
チャーリーは笑わせるのではなく、笑われている。それでは本人は満足を得ることができないのだ。同じ「笑い」でも大きく違う。だから彼は最後まで自分の笑いの才能に気付かず、大道具係として脇役を生きることになる。
それは恋だって同じだろう。
団長の娘はチャーリーに恋されているが、結果的にそこに満足できない。
警官との逃走劇を繰り広げたチャーリーでも、恋の追いかけっこでは最後尾。
恋まで脇役に回されてしまう彼の失恋に観客は笑えても、本人にはまったく笑えないのがおかしいのです。
チャップリンが初めて見せた、寂しげな後ろ姿
これまで、鋭い風刺で社会を笑い飛ばすコメディ映画の“喜劇王”として多くの人々に親しまれたチャップリンが、本作で初めてセンチメンタルな表情を見せ、ラストシーンでは寂しげな後ろ姿で去っていく。
団長の娘を一途に恋し続けたチャーリーが、綱渡り師に「僕は彼女のために何もできない」とその恋を託す。自分が単なる放浪者かつ笑い者であることを自覚し、恋を諦めてしまうのです。
その後、サーカス小屋の跡地の荒野で一人佇む姿。ここにはチャーリーだけでなく、チャップリン自身の孤独感が重ね合わされているように見える。
常に人々に笑いを与えてきた彼が、なぜ孤独なのか。
多くの人々に笑いながら拍手喝采されても、彼自身は笑っていない。笑われるチャーリーと、笑わせるチャップリンは紙一重なのかもしれない。
二つのキャラクターがそっと立ち上がり、行き先もなく歩いていく姿にはどこか勇ましさを感じてしまう。笑い一筋の喜劇王に留まらず、人生を描く“映画作家”として生きていく覚悟を匂わせる。
彼の映画はフィクションでもあり、彼自身の人生を投影するノンフィクションでもある。だから笑いも恋愛もまとまって鋭い棘となり、心に突き刺さってくるのです。
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