「少女映画の黎明期に突入する」――『溺れるナイフ』を観た直後はそんな予感に囚われた。女の子が主人公の従来の映画を間違いなく拡張し、空の青さも海も青さも脅かすような、青すぎる“青”春がそこに描かれていた。
『あの娘が海辺で踊ってる』で鮮烈なデビューを果たした後、『おとぎ話みたい』『5つ数えれば君の夢』と立て続けに女の子たちを魅了する作品を世に送り出す山戸結希監督。その作品は決して甘くはない。時に深く傷を付けてくる。それは、少女なら誰もが思春期に受けた心の傷なのかも知れない。
そんな“少女映画”の旗手を担う彼女が今回、スクリーンから新たな“ナイフ”を差し出す。魅力的な役者をどのように演出したか、また本作がもたらす今後の展望について伺った。
―思春期は戦場だ!少女の自意識が一人の少年の魅力で壊されるとき『溺れるナイフ』
―「心の輪郭を教えてくれる恋は芸術になる」 『溺れるナイフ』山戸結希監督×佐久間宣行トークイベント
「何かを死ぬほど望んだり願ったりする女の子を主人公にしたかった」
――小松菜々さんが演じる「夏芽」のキャラクターは、都会と田舎の狭間でもがく、これまでの山戸監督の作品に共通する印象を受けました。少女の恋愛の衝動的な欲求を含めて、その主人公の存在から観客に何を伝えたいですか?
ちゃんと何かを望んだり願ったり、欲望する主体として夏芽を撮りたかったんです。今までずっと、女の子は欲望される側の被写体として映画の中で描かれてきたからこそ。それはもちろん誰が悪いとかではなく、そういう歴史のほうが長い、という現状のセッティングを前にして、その歴史の転換期になるような作品にしなければいけないなと。
日本の若い女の子が、「あっ、私と同じように何かを死ぬほど望んだりする女の子が、初めて主人公になる映画なんだ」って思ってくれるような映画にしたいなと思っていました。人生の主人公は、醜い感情だってかけがえなく孕んでいるはずで、それが光ってこそ映画になる。そんな主人公を、物語の水準までせり上がらせて、スクリーンに呼び込みたかった。そんな夏芽を、小松さんを通して撮らせてもらいました。
――小松さんを演出する上で気を付けた点は?
小松さんは、いつだって長い手足を持て余してしまう、哀しい存在感みたいなものが美しいなと思っていました。女の子が思春期に抱く、「自分の身体はどこに行っちゃうんだろう?」って持て余す感覚が、彼女が立つその画と重なって。彼女の長い手足があるのはそのためなんだなぁって心から思えて、その生身の光る手足の一挙手一投足、日本中の女の子のために跳ねたり踊ったり走ったりするものにしたいと思ったんです。
ただ棒立ちしていてもお人形さんみたいに美しく撮れる人だからこそ、彼女が本当に人形だったら壊れちゃうくらい、お人形さんとしては生きていられない人間の魂ごと撮りたいなって思いました。
――小松さんの相手となる菅田将暉さん演じる航一朗が、強烈な印象を残す存在でした。菅田さんの演出で特に意識した部分を教えてください。
菅田さんは「何色にもなれて何の役でもできる」、それは確かに真実で、実際にもそうなのですが、それに甘えてしまうと、彼を代替可能な人物として映しかねない。いま女の子が本当に惹かれているのは、菅田さんご自身が代わりが効かない程発光しているからで、菅田さんの一番美しい部分というか、美味しい部分ってどの映画でも捉えきれていないと勝手に感じていたんです。
でもそういう、役自体では捉えきれない部分で輝いていて、女の子に熱狂をもたらしている人だからこそ、それを役に持ち込むというのは一枚壁があるんだなとも感じながら。だから、役のほうに菅田さんを寄せるのではなく、菅田さん自体の魅力が輝くように撮るっていう気持ちは自分の中では強く意識していました。絶対どの映画よりも魅力的な菅田さんを撮りたかった、これだけ重ねて撮られている人だからこそ。
――一方、航一朗とは正反対な重岡大毅さんが演じる「大友」との違いについて、演出ではどんなことを考えましたか?
重岡さんと菅田さんが目の前にいたときに、存在として全然離れ過ぎていて。こちらが意識するまでもなく、アイドルの畑から登場した男の子と日本映画で連続的に撮られている男の子というお二人の映画に対する距離も違いますし。
性別だけが一緒というだけで、こちらが描き分けなどしなくても、その発色をちゃんと見逃さなければ、すごく自然な存在として違いが出るだろうなと。