2人の幸せな姿が胸を締め付ける
酸素ボンベの管を退けてキスをするシーンのロマンチックさといったら。
片脚のないオーガスタスがヘイゼルを抱きしめる。重なり合う身体は他の人と違う。でも、そこにいるのはどこにでもいる若い男女。新しいカップルの誕生に涙が溢れてしまう。
ある意味、死を描かれるよりも2人の幸せな姿を眺めることが胸を締め付ける。だからといって陳腐なお涙頂戴映画とは一線を画す。それは愛し愛されることが相手を傷つけることになると知っているから。
死を目前にしたヘイゼルだからこそ、オーガスタスに愛されることが恐怖になってしまう。
「生きていれば傷つくこともあるけど、その相手は選べる。君に傷つけられたら本望だ。」
このオーガスタスの言葉に、死がすぐそこに迫っていなくても、飛びついて抱きしめたくなる人は少なくないはず。闇に光を照らすように、互いに励まし合って生きていく2人が過ごす日々は輝いていて、笑いに溢れている。
決して重苦しい空気にさせない映画全体のテンションに、安心して身を委ねられるのです。
次々と予想を裏切る“難病モノ”の新しい定義
この映画は予想を裏切り続ける。いわゆる“難病モノ”のお約束を打ち砕く。
本来、死を目前にしている者にとって、自分のラブストーリーは映画のように上手くいくとは思っていない。人はいずれ死ぬが、末期ガン患者は明日、いや今日が最後かもしれない、と。
そんな女の子は自分が死ぬことで「傷つける」と愛する人に打ち明け、その愛する人に「忘れられたくない」ために愛することを恐れる。それを聞くと、死期が定められていない者は気づくはず。自分は何も恐れることなんてない、と勇気付けられていることに。
そして、オランダへ旅に出たヘイゼルとオーガスタスに、この映画は楽観的な展開を用意していない。2人の心を崩れさせるような出来事に、またも予想が裏切られる。
その絶望のおかげで2人は距離を縮めるが、このシニカルとも受け取れる展開は、男女の恋愛観の違いを冷静に見つめた『(500)日のサマー』の脚本家のせいだろうか。
生きるのに必要なのは薬だけじゃない。毒がなければ説得力がない。現実を描くことで、死に対して誠実な作品に仕上げているのです。