ジョルジュは“忘れられない男”の象徴?
アラン・レネ監督が最後に残した作品は、いい意味で地味で親しみやすい。世界で初めてアウシュビッツでの大量虐殺を告発したドキュメンタリー『夜と霧』から約60年、彼が辿り着いた先の“結論”に心温まる。
正直、これが巨匠の最後の作品?と目を疑った。かつての戦争映画から遠く離れ、世界のありとあらゆる地で長い年月をかけて渡り歩いてきたレネが描き出す男女の姿。そこに所謂巨匠が生み出すような“重くて深くて難解”みたいなめんどくささはなく、分かりやすくて楽しい人間ドラマがあった。
物語の発端となるジョルジュは一切姿を現さない。元恋人のカトリーヌ、元妻のモニカ、素人演劇でラブシーンを演じるタマラ。3人の女を死期が迫ってもなお翻弄させる彼のカリスマ性は、ご想像にお任せって感じか。男女の会話から見えてくる彼の輪郭。姿形が見えないからこそ、女が求める“忘れられない男”の象徴が浮かび上がってくる。
女はやがて誰かの妻になり、母になる。しかしその心は、誰かに掴まれたわけではない。
彼女たちの夫3人が滑稽に見えてくるが、男というものは年老いても結局マヌケなままなんだろうか。これがアラン・レネの出した“結論”だとしたら、「はい、そうですか」と項垂れながら従うしかありません。
人間は常に演技をしているのかもしれない
この映画は全編奇妙なムードに取り憑かれている。登場人物はそれぞれ舞台セットの中を生きていて、虚構に満ちた壁紙のそばで苦悩する。激怒する。爆笑する。ロケの撮影は一切なく、全てが演劇の舞台のような空間で撮影されているのです。
全てが嘘のようで、作り物みたい。まるで人間はいつも演技をしていて、あらかじめ用意されたセリフを放っているかのよう。
男女の駆け引きを茶化したかのような演出は、まるで新進気鋭の若手監督が繰り出す“攻め”のようだ。これがベルリン国際映画祭で「アルフレッド・バウアー賞」を受賞した大きな理由だろう。
素人演劇の芝居でジュルジュとラブシーンをするタマラと、それにヤキモキする夫のジャック。彼はジョルジュと10代の頃からの大親友で、死を告げられた時は号泣していたはずなのに、今にも「死ね!」と言わんばかりの嫉妬を吐き出す。
生と死を前にしているのに、なんと情けなくて愉快な人間模様なのか。アラン・レネはこのような人々を滑稽に、そして優しさたっぷりに描くために、演劇の舞台セットに立たせたのかもしれない。
「人生は案外、マヌケでオカシイもの」とでも言っているかのようだ。
だから、レネが先に辿り着いた最期の時まで、「愛して、飲んで、歌って」楽しみたいと思えてくる。