はじめての偏頭痛。痛みで気を失った「私」はどこにいた?

自分を好きになってくれない人や身勝手な人ばかり好きになり、不安定な恋愛関係に陥ってしまう女性たちへ。
「私は最初から私を好きじゃなかった」――自己肯定感の低い著者が、永遠なるもの(なくしてしまったもの、なくなってしまったもの、はなから自分が持っていなかったもの)に思いを馳せることで、自分を好きになれない理由を探っていくエッセイ。

永遠なるものたち022「偏頭痛」

頭を抱える画像 Matteo Vistocco

ある朝、眠りから目を覚ますと、両目に違和感がありました。
家族の誰かがふざけて瞼の上から押したのだと思って、手の甲で瞼をぐしぐしさすります。笑いながらふらふらと起きて、「寝てる間に目を押したでしょ」と訊きましたが、誰も押していないと言います。しかし両目には、たしかに誰かに指の腹でぎゅうと押されたような感覚が残っているのです。
まだ皆がとぼけているのだと思って、もう一度「押したでしょう?」と笑うと、本当に不思議そうな声で「押してないってば」と言うので、だんだん不安になってきました。じゃあこの違和感はなんなのか。

私が生まれて初めて偏頭痛を体験したのは、この数十分後のことでした。

偏頭痛は私が知っている痛みの中でも、最もぼんやりした感覚から始まります。まさかこれから痛みに変わるとは思えないような。
この時も瞼の奥のほうに集中してみると、ぼんやりとした違和感があって、そこから徐々に鈍い痛みが広がっているような感じが微かにしました。しかし油断していると、これがとんでもない痛みになるのです。

最初はなにか目の病気かと思って、病院に向かったのですが、その途中で、強烈な鈍痛に目が開けられなくなりました。いつのまにか頭の中に風船が入り込んで、やわらかく膨らむので違和感を覚えていたら、瞬く間に目の裏で脳みそを圧迫するようになってしまった。そんな感じなのです。あまりの痛みに、道端でうずくまって吐いてしまいました。

それから偏頭痛は忘れた頃にやって来て、また忘れた頃にやって来て、半年ごと、数か月ごと、天気が乱れると毎日でも来るようになりました。
予兆として、視界の端が壊れかけのディスプレイみたいにじらじらして見えます。その時にはまだ痛みはありません。しかし一度これが見えると、そのまま済むことはなく、必ず数十分後には堪え難い痛みに襲われるのです。視界がじらじらすると、「またか……」と憂鬱になります。
横たわって目を閉じると、闇が蠢くのが見えて、痛みが膨らむにつれて、闇のうねりもダイナミックに見えます。痛みに体を丸めて、それをじっと見つめるのは孤独です。自分の中にある自分にはどうしようもできない原因不明の痛みと向き合う時間。