時折思い出す、あの夜の出来事

 忘れられない日があります。
 彼の喫茶店は、私が初めて通い始めた精神科から道路を挟んではす向かいにありました。鬱病と診断されてから、処方された薬を服用しているだけでいいのか疑問を抱きつつ、それでもそうするしかないのでそうしていた頃です。
 世界が灰色に見えて、舞台に立つ仕事は忙しいくらいでしたが、私生活は病院に行けただけで上出来というような状態でした。その日も診察を受けただけでくたびれてしまって、帰宅できるかどうかすら不安でしたが、なんとなくふたりがいる気がしてお店を訪ねました。たまたまお客さんがいなくて、ふたりが紅茶を飲んでいて安堵したのを覚えています。

 歓迎ムードの中、「今日は何をしていたの?」というような世間話が始まって、私が精神科に行ってきたことを知ると彼は「信じられない!」と両手を上げるいかにも外国人らしいリアクションをして、すぐに店を閉めて私と彼女を外に連れ出しました。
 驚いたのは私のほうで、目を丸くしながら彼の背中を追いかけて行くと、到着したのはなんとビルの最上階にある広々としたトレーニングジムでした。運動とは縁がないので、メタリックなマシーンや、好んで自らを追い詰めている屈強な男性たちがいちいち珍妙に映ります。
 私たちも貸し出されたトレーニング着に着替えて、トレーナーの男性から様々な器具の紹介を受けて体験しました。友人は腹筋が一回もできなくておっかなびっくりしている私を見て笑ったり、お調子者の彼が難しい設定でマシーンを使ってみせようとするのをたしなめたりしていました。
 三人でランニングマシーンに並んで、ハムスターみたいに同じところを走っていると汗がたくさん流れます。最後に案内されたバルコニーからは渋谷の夜景が広がっていて、街がずいぶんと遠く、小さく見えました。変な日。そう思って笑いながら友人とシャワーを浴びて着替えます。

 ロビーで会計を済ませて待っていた彼にお礼を言う間もなく、今度は中華料理屋に連れて行かれました。彼は席に着くなり素早く店員さんにメニューを指差して、その通り、テーブルに乗り切らないほどの料理が次々と運ばれてきました。油で光っている豆苗炒めや、エビのチリソース炒め、様々な形の餃子が小皿に取り分けられて差し出されます。慣れない運動後の高揚感も手伝って目を回しながら口に運びました。
 「だから言ったでしょう? 運動とごはんがあれば元気でしょう?!」
 彼がまだまだ何かを小皿に取り分けて差し出しながら、片言の日本語で真剣に言います。その言葉は初めて聞いた気がするけど、本当にその通りだと思いました。いつの間にかテーブルの上の料理が鮮やかに見えて、友人と恋人の私に話しかける声が明瞭になっています。全身が軽くて、普通ってこんなに軽いんだと思ったら、びっくりして笑えてきました。
 「だから彼女は僕と一緒で元気で幸せ!」
 ふたりが笑って、私も嬉しくなります。嬉しくなったのは、久しぶりのことでした。

 「それでね、あいつイタリア人じゃなくてイラン人だったの!」
 ひええ、私は間抜けな声で驚きました。まったくこの人たちには驚かされてばかりです。
 彼の奥さんは不倫相手たちの存在こそ知らなかったけれど、知っている限りの彼の素性を話してくれたそうです。私もハッと、そういえば喫茶店で出してもらった紅茶のタグがペルシア語(その時はアラビア語だと思った)だったのを思い出しました。
 「意外と見分けつかないものだねえ」
 どちらからともなくそう言ってぽかんとします。
 その話を聞いてから私は彼に会っていません。友人が彼と会わなくなったからです。勇敢な不倫相手たちに愛想をつかされて、奥さんとも別れて、もしかしたら事情を知らないほかの女の子たちと今日もどこかで笑っているかもしれません。そんな気がします。

 きっともう会うこともないだろうけど、仲の良かったふたりと、あの夜のことは私の中で時々微笑み混じりのため息みたいに思い出されます。

Text/姫乃たま

次回は<私は価値ある存在なの?かけがえのない存在だと認められたかったあの頃>です。
「母親との関係は自己肯定感に影響を与える」と言われることが多いですが、姫乃たまさんの場合はどうだったのでしょうか? 幼少期までさかのぼって母親との関係を見つめなおす姫乃たまさん。そこには自分の存在を認めるヒントがありました。

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