まだ私の人生に現れていなかった、あの夏

 あの夏、女子大生だった私は人妻デリヘルを経営している夫婦と知り合って、家出少女というよりも、夏休みで遊びに来た親戚の子どもみたいに、たいそう甘やかされて可愛がられていました。

 一度だけふたりの旅行に連れていってもらったことがあるけれど、普段はどちらかが(奥さんはデリヘル嬢でもあったから、たいていは旦那さんが)電話番をしてないといけないので、私もふたりにくっついて待機所で過ごしていました。そこにはいろんな女の人がいて、電話が鳴ると誰かがきれいなハイヒールを履いて出て行きます。

 当時ワーカホリック気味だった私は、そこでだけ、何もしないで過ごすことができました。生まれた家が酒屋で、夜遅くまで営業していたからかもしれません。働いている人の気配があるとよく眠れるのか、どこよりもデリヘルの待機所はぐっすりと眠れたのです。
昼も夜も関係なく光りっぱなしの蛍光灯と、くたびれたクッション、共用の大きなテレビ、コスプレ衣装、ダイエットのためのプロテインとシェーカー、それぞれのメイクポーチと玄関に並んだハイヒール。お店で一番長いコースを指名された奥さんが戻って来てもまだ、すやすやと眠っているので笑われた日もあります。

 あまり外出もできないので出前を取るのが楽しみで、豪快な性格の旦那さんが何人前もお寿司やピザを注文しては、みんなで賑やかに食べました。よく食べる夫婦で、それっぽっちしか食べないなんてダメだと、いつもたらふくご馳走になっていました。それからお客さんのところに行く奥さんを見送って、また眠りにつくのです。

 それでも時々、息の詰まる日があって(もちろん私がではない)、電話が落ち着く深夜になると、一緒にスパにでも行っておいでと旦那さんがお小遣いをくれました。奥さんが運転する送迎車の助手席に乗って、水道橋まで流れていく夜道を眺めます。
私たちは露天風呂に浸かって、夜が朝に変わっても何時間でも話し続けました。深夜の露天風呂は人も少なくて、時々黒い空にぽっかりと月が浮かんでいたのを覚えています。やがて空が白んで、ふやけてしまった私たちの裸を照らしました。友人はまだ私の人生に現れていなかった、あの夏。