永遠なるものたち011
「もの忘れ」
昔から家の近くに、やっているのかやっていないのかわからない喫茶店があります。入口の扉は中が見えないデザインで、大きな窓にはビールを持っている美人画のポスターなどが貼られているので、やっぱり中が見えないのです。
暗くなるとポスターの隙間から明かりが漏れていたり、店先の看板があったりなかったりするので、どうやら営業はしているようなのですが、家まであと少しなので立ち寄る機会もなく、いつも家に着くと喫茶店のことは忘れてしまいます。
それなので、まさかそこへ祖母を迎えにいくことがあるなんて、思ってもみませんでした。
ずっと中が見えなかった扉を押すと、小さなテーブル席の奥から、ようやく迎えが来た子供のような顔で、嬉しそうに祖母が手を振っています。
幼かった私の手を引いて、お寺やお団子屋さんや、どこへでも連れて行ってくれた祖母。いつからか私が彼女の手を引いて、喫茶店から近くの家まで帰るようになりました。
働き者だった祖母の手は節くれ立っているけれど小さく、すっかり私の目線より低いところにある横顔をみると、人が大人でいられる時間は案外短いのだなあと思います。
カウンターには祖母より少し年下の女性が立っていて、挨拶をすると笑顔でおしぼりと瓶ビール、それからマグロのお刺身をテーブルに並べてくれました。
背筋のぴんと伸びた女性で、「須藤さんはプールが趣味なの」と言う祖母の言葉に思わず頷いてしまいます。
喫茶店というより、スナックというか、小料理屋らしい雰囲気のこの店を、ずっと一人で切り盛りしているそうです。
その昔、祖母と須藤さんは大酒飲みで、一緒によく飲んでいたといいます。今夜はもうひとしきり話し終えた様子でしたが、新しい聞き役が登場したので、賑やかだった頃の話に再び花が咲きました。いなくなった人たちの思い出に目を細めるふたりの横で、私も大酒呑みのふたりと、その周りにいる会ったことのない人たちを思い浮かべます。
いよいよ祖母が喋り疲れると、須藤さんが「いいね、迎えにきてくれる人がいて」と言うので、少ししんみりした空気が流れました。彼女は店の二階に、ひとりで住んでいます。
須藤さんがもう一本ビールを出そうとしていたので、やんわり祖母が遠慮すると、引き止めようとしているのか、「あら、私ビール出したかしら?」ととぼけて首を傾げました。お店にはまだほかのお客さんは来ていません。お会計が明らかに値引きされていたので、いいのよだめよとレジの前で押し問答してから、私たちは店先で見送られて帰路につきました。