この肉体は単なる乗り物じゃない
体は不便なものです。病気になっても、自分で痛みを止めることも、体内の患部を直接見ることもできず、それどころか何がどうして、いまこうなっているのかすら、自分ではわかりません。体の中が痛んでいる時は、ただひたすら無力です。
何かが悪いのはわかったから、大事にするから、なんとか痛みの神経を切れないものかと思いながら苦痛に耐えるしかありません。一時的な乗り物とは言え、体にも気を遣わないといけないのです。そもそもどうして私はこの形の体で生きていかなければいけないのでしょう。
なかなか治らない猫背や、なんとなく体全体が左右どちらかに傾いているのも気になります。私は自分のことがお気に入りじゃないから、自分の癖はなんでも矯正するべきだと思っていました。私が私じゃなくて、すっかりまっすぐになるまで、どこまでも。
整体の問診でそう話したら、「体に不調がなければ、そのままでいいですよ」と言われました。まっすぐにしようとする方がストレスじゃないですか、と。たしかにその通りでした。
人は疲れていれば、自然と左右どちらかに体重をかけて立ったり、座っている時に脚を組んだりします。その方が、体が楽になるからです。これまで癖は無理にでも矯正しようとしていたので、体のしたいように動かすだけでストレスが減るようでした。
また、問診では出生時の様子についても聞かれました。体は生まれてきた時のことを覚えているといいます。狭い産道をどうやって通ってきたのか、あるいは通らなかったのか。時間はかかったか、あまりかからなかったか。生まれる時の強烈な体験を、頭は覚えていなくても体は覚えているそうです。
生まれた時のことも覚えているのですから、私の猫背や、体の傾きや、動作の癖には、体だけが覚えて蓄積している歴史があるのだと思います。あてもなく歩き続けていると、ふと心が晴れるように、体は心に影響していて、それは単なる乗り物ではないようです。
ボロボロの状態よりも、手をかけてメンテナンスしている乗り物の方が乗り心地が良いように、いつか燃やされてしまう体だとしても、大事にした方が心にもよいのだと思います。