正常位で抱き合うだけが「正しいセックス」じゃない。官能小説で伝えたいこと

大泉りかコラム

先日、とある取材のオファーを受けた際のことでした。先方に「官能小説家の方に話が聞きたくてリサーチしたところ大泉さんが出てきたんですが、女性で、さらにお子さんもいるっていうので、さらにお話を聞いてみたいと思いまして」といって、企画の概要を説明されました。

『子持ちの女流官能作家』という属性に、興味を持っていただけるのはとてもありがたい。なぜなら、わたしが女性であること、そして子どもがいることを公表しているのは、それらを隠した場合、その辻褄を合わせることや、真実を知っている人たちへの口裏合わせが面倒くさいというのが一番の理由ですが、それだけではありません。女性であること、そして子どもがいることは、使いようによっては物書きとしての“売り”になるからです。

『女流官能作家』に抵抗感がない理由

良くも悪くも、女で、官能小説を書くことを仕事にしていると『女流官能小説家』もしくは『女流官能作家』という肩書でくくられます。以前はエロではない、いわゆる官能以外の、文芸作品などを書く女性も『女流作家』と言われていたように思いますが、最近ではあまり聞きません。同じ小説家という職業でありながら、なぜ官能の世界では『女流』というくくりがいまだ残っているのか。
それはおそらく、文芸ジャンルに比べると、圧倒的にまだまだ女性の作家が少ないこと、そして当の作家自身が『女流』と看板を付けられることに、さして抵抗感を持っていないことがあるように思えます。

なんて書くと、同業の女性官能作家たちから「わたしは違う、抵抗感がある!」と反発を食らいそうな気もしますが、少なくともわたしは『女流』の看板をつけられることを、気にしていません。「作家ならば、書くもので勝負すべき」はもっともすぎる意見です。けれども、勝負した上で、さらに売上や評判などに、なにか上乗せできるものを持っているのならばそれを利用したい、履ける下駄があるなら履きたいというスケベ心が、どうしても捨てきれないのです。ようするに『女流』ということで、得していることのほうが多い

世の中には「女性の書いたエロい小説が読みたい」というニーズもありますし、そうでなくてもたまたま作品の存在や著者の姿を目にした際、「こんな女性が書いてるなら読んでみようかな」というフックにもなる。
もちろん「女性の書くエロは男心がわかってないから、女流の作品は読まない」という人も存在すると思うので、顔はもちろんのこと、性別を隠して作品を発表したとしても、結局のところ、読者数はまったく変わらない結果になるかもしれません。けれども、そうすると今度は、自分が伝えたいメッセージが上手く伝わらなくなってしまうようにも思えるのです。