オチンチンが可愛くなくなったあの日

 だからきっと、わたしはオチンチン博愛主義者ではありません。セックスをしたいと思った人についているから舐めたり挿入したりも出来るけど、そうでなければむしろ見たくもないし触りたくもない。オチンチンと持ち主とを切り離して考えられないし、オチンチンそのものよりも、それが誰についているかが重要なのです。だから、さして形や色などの姿形にこだわりもありません(実用性を考えた時は、長いとちょっと痛いから、短めのほうがいいっていうのはありますが)。
たまに、オチンチン博愛主義者が「とにかく理想の姿をしたオチンチンで」なんて言っているのをずっと不思議に思ってきましたが、たぶんそういう女性は、大人のオチンチンも赤ちゃんのオチンチンと同じようにフラットな目で見ているのだと思います。

 赤ちゃんのオチンチンは誰のものであっても好ましく思えるのに、大人のオチンチンはなぜそう思えなくなってしまったのか。それはいったいいつからなのか。記憶をたどると、ひとつの出来事に突き当たります。
それはまだわたしが小学生だった頃。当時住んでいたマンションの内階段に現れた、痴漢のペニスの記憶です。いきなり目の前に出された、自分勝手に天に向かって突き立ったアレは醜悪で、本当に厭わしかった。

 あの時、欲望を一方的に押し付けられた嫌悪感が、オチンチンと結びつき、オチンチンそのものを「可愛い」と思えなくなってしまったのだと思います。そしてそれはちょっぴり不幸なことでもあると思うのです。
だって、オチンチン自体が好きでいられれば、「そこに穴があったから」セックスをしてしまう男性と同じように、「そこに棒があったから」セックスが出来たはず。いちいち、恋だの愛だのを必要としないセックス。それは、どれだけ爽やかなことでしょう――でも、もしも呪縛が解けてしまったら、どんな男性のオチンチンも等しくめでられることになるわけで、それはそれで人妻であり母である立場としてはどうなのでしょうか。

 なんてことを書いているわたしの膝で寝ている、息子のおむつには、おしっこをしていることを知らせる青いラインがうっすらと浮かびあがっています。この原稿を書き終えたら、可愛い息子の可愛いオチンチンを見ながら、今日十何回目のおむつ替えをしなければなりません。

Text/大泉りか

次回は<デートで店を予約しておかない男って何なの?2人ですれちがう「特別な日」への考え方>です。
先日、息子さんの「お食い初め」をうきうきで準備した大泉りかさん。Instagram映えするお祝い膳を作って思い知ったのは、旦那さんのお祝いごとへの興味のなさでした。ここから気づいたのは、この興味のなさってデートにも通じるのでは……?ということ。デートコースを決めたり、お店を予約したりできない男の心理とは?