愛のことはもう仕方ない。
ここ数日、世間を騒がせている事件といえば、ベッキーと『ゲスの極み乙女。』のボーカル、川谷絵音との不倫問題ではないでしょうか。
「ええっ、ベッキーって、女にこんなに嫌われてたの?」と世間の反響に驚きつつも、離婚届けを“卒論”と呼んでいただとか、離婚を催促だとか、正直、既婚者である身からすれば「自分の立場わかってんのかなー?」のひとこと。
そんなふたりがやりとりをしていた、LINEの画面が誌面に掲載してあるということで、即刻コンビニに走って週刊文春を手に入れて読みました。
確かにふたりとも、やり方が悪いですよね。“卒論”とかいう隠語は相手の妻をナメているとしか思えないし、婚前旅行で実家に挨拶に行くのも尚早すぎる。
けれども、ふたりのLINEを見て、わたしの頭の中に浮かんだのは、とある方が以前おっしゃってくださった「愛のことはもう仕方ない。」という言葉でした。
もちろん、川谷が昨年の夏に結婚したばかりの新婚であったことは、川谷の人間性を疑うひとつの要素ではあると思いますが、付き合っていた相手と、「この人なのかなぁ、いいのかなぁ」とぼんやりと思うまま、「いつ結婚するの?」「ちゃんとしないとダメなんじゃない?」「そろそろ責任取らないと」という周囲や両親や相手のプレッシャーも手伝って入籍してしまうことってあると思うし、その後に「一緒に人生を歩みたい」ともっと強く思う人に出会ってしまうことだってない話ではない思います。
もちろん「一度決めた相手なんだから、結婚生活をまっとうせよ」というのは、ものすごく真っ当なことだけど、それが言えるのは、『正しいことこそが、すべてと思っている人』と『自分を犠牲にしても、配偶者の幸せを優先している人』だけではないでしょうか(そして、それって幸せなのでしょうか)。
わたしは軽薄だから、『自分を犠牲とした配偶者との幸せ』と、『配偶者を犠牲にした自分の幸せ』とを秤に掛けた場合、後者を選びますし、以前このコラムに書きましたが、現に結婚間際まで行った相手を、寸前で振ったことがあります。
なんであれ、不倫しているふたりの肩を持つなんて、見識を疑われそうですが、しかし、もうひとつ付け加えて申したいことがあります。それは、「結婚をしているのだから、世界の正義は妻にある」ということです。
結婚したら、配偶者がよそに愛を持ったことをいくら責めてもいいし、どれだけ酷い思いをしているか訴えてもいい。
それで諦めたり考え直した配偶者が自分のところに戻ってくれば、配偶者を犠牲にしても、自分の幸せを勝ち取ったことになる。
どうやっても、配偶者が戻ってこない場合は、裁判を起こして慰謝料という制裁を与える権利だってあるのです。
これぞ妻(夫)の強みではないでしょうか。
ちなみに冒頭の「愛のことはもう仕方ない。」は、その結婚未遂した相手との、披露パーティー(!!)にも出席してくださった歌人の枡野浩一さんに、別離した旨を報告した際にいただいて、すごく慰められた言葉です。
女友達がつらいめに陥った時に、いつか使おうと思っていましたが、まさかベッキーと川谷さんに使うとは思ってもいませんでした(笑)。
…次回は《「負のメンヘルループ」は身体が交わると移ってしまうのか?》をお届けします。
Text/大泉りか