別れの理由
今年の春は桜の開花が例年より早いそうで、東京では3月半ばには桜が咲いている。ぼうっと桜を見ていると、ふと遠い昔の花見デートを思い出したりする。思えば毎年この時期、そのときどきの好きな人と桜を見ているわけだ。もしかしたら相手も同じように私のことを思い出してくれていたりするかもしれない、と思うとちょっとうれしい。実際、春は、昔の恋人から連絡がくることが多い季節だ。今年はまだきていないし、別にこなくていいんだけれど。
「あのさー、あのとき、なんで俺と別れたの?」人生で何度か、過去の恋人にこの質問をされている。「忘れちゃった」とか「私って人と付き合うのに向いてないのよ」とか適当に答えるが、たいてい納得できない様子で、「何か嫌なことした?」などと聞かれる。去年の春にもそんなやりとりがあった。「別にいいじゃん、それってずいぶん前の話で、あなたもう他の人と結婚するわけでしょ」と言うと、まぁそうなのだが理由に納得して次に進みたいということだった。
私の場合、別れたい理由を真面目に説明しても、納得してもらえたことがない。「そんな理由はおかしい。他に男ができたんでしょ?」「こっちは間違ってない」などと言われたり、そんな話してないのに「オレが仕事が忙しかったのが悪かったんだね。もっと時間つくるから」「家事は全部やるから」などと的外れなことを言われたりして、いつからかちゃんと説明するのをやめてしまった。
正しいとか間違っているとか、納得できるとかできないとか、そんなことは一切関係がない。どちらかが「あー!もうあんたとはやっていけないわ!」と思ったら終わり。カップルってそういうものではないだろうか。
「対面での別れ」に求めるもの
最近は、LINEで別れのメッセージを送って関係を終わりにする人もけっこう多いらしい。このことについて先日ツイッターの友人たちと話していたら、「せめて顔を見て言え!と思う」と言っていた。「でも、別れるっていう結果は、対面でもLINEでも変わらなくない?」と聞いたら「結果は変わらなくても、区切りとして顔をあわせて話したい」とのことだった。
その話で、ふと小学生のころに母方の祖母が亡くなったときのことを思い出した。お通夜の前に「おばあちゃんのお顔見る?」と母が棺桶をあけようとしてくれたが、怖いからと断った。隣に座っていた従弟は見に行って、それから順番に親戚が見に行って、別れの言葉を伝えていた。祖母の死に顔を見なかったのはたぶん私だけだったと思う。「みんな、なんで見るの?」と母に聞くと「区切りだよ」と言っていた。そのあと「お葬式って何?」と聞いた時も「区切りだよ」と言っていた。それ以上は聞かなかった。
「自分が死んだら葬式なんてやらなくていいや、仏教徒でもないし」と若い頃は漠然と思っていたし、まぁ今でもそう思う部分はあるが、最近やっと、葬式や法要という文化の意味を少しは理解してきた。「葬式の準備が大変で、泣いている暇もなかった」という話をよく聞くが、深い喪失感にあるなかで、しなければならないことがあるというのは時に救いになるだろう。まだ若い息子さんを事故で亡くした知人は3ヶ月間仕事を休んだが、「1ヶ月半から2ヶ月くらいでやっと息子以外のことも考えられるようになったから、49日というのは確かにちょうどいい期間かもしれない」と言っていた。
死別と一緒にするわけではないが、恋愛においても、大事な人と別れるときに、人は「区切り」を必要とする。自分がその人と過ごすはずだった膨大な時間を、その人抜きで何とかやりすごしていくためだ。だからこそ、昔から様々な式典や行事があるのだろう。そういった何かしらの儀式を重ねていくことで、永遠のように思える長い時間を区切って有限にしていくのだ。
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