前に進むために、自分なりの儀式を

LINEではなく、会って別れ話をするというのも、ある意味、儀式の一種だとも思える。コロナ禍でオンライン会議が普及したものの、「オンライン法要」については抵抗感がある人が多いとニュースで読んだ。ただの意思決定であれば対面する必要はないが、儀式は対面前提と考える人が多いということだろう。別れ話もLINEでダメというわけではないが、会った方が区切りになる。そういう意味では、別れの理由を聞いて納得するためというよりは、前に進むための儀式としてとらえるのが適切なのではないか。

「フラれたとき、儀式のつもりでピアスをあけた」という友人もいた。私も失恋して金髪にしたことがある。別に、会って別れ話をしたから、ピアスをあけたから、金髪にしたから、結果が変わるわけでもないし、一気に悲しみが癒えるわけでもないが、儀式というのは、時間をやりすごすためのものであるから、別に自分の好きなようにすればいいのだ。

日本には四季がある。寒い冬が終われば桜が咲き、桜が散れば、あたたかくなって、雨がふって、夏がくる。そうこうしているあいだに、喪失感も、悲しみも、恥ずかしさも、むなしさも、少しずつ薄れていく。大好きだった人のことを「なんだあいつ」と思えるようになったり、やっぱり魅力的な人だったような気がしてきたり。長い人生をやりすごすには、四季のある国というのは案外良いのかもしれない。そんなことを桜を見ながら思う。

Text/雨あがりの少女