もし恋人のケータイを見ていたら
これは私がまだ20代前半だった頃、恋人と温泉旅行に行ったときの話である。仲の良い女友達が多い彼に、当時の私は必要以上の嫉妬をしていた。そこで、彼が客室についている露天風呂に入りに行った隙を狙って、机の上に置きっぱなしにされていたヤツのケータイを……見てやろうかと手が伸びかけたのだが、結局、チラリと視界の隅に収めただけで、触ることはしなかった。いくら気になるとはいえ、やっぱり人様のケータイを勝手に見るのはルール違反ではないかと、手が止まったのである。
しかしそのあと、彼が露天風呂から上がるのを待って自分が風呂に入ったときに、私は心臓が止まる思いをする。照明や障子の関係で、客室から露天風呂側を見ることは一切できないのだが、露天風呂側からは客室がスケスケの丸見えだったのだ。つまり、私が彼のケータイをパカっと(当時まだスマホというものは存在していなかった!)開いて見ていたならば、彼にその現場を目撃されていたはずで、露天風呂から上がった彼に私はブチギレられていただろう。
なんとか思い止まることができたゆえにその温泉旅行は喧嘩することもなく楽しい思い出となったが、魔が差した一瞬の衝動にしたがってケータイを見てしまっていたら、おそらく私と彼の関係はそこで終わっていたはずである。
と、こうして幸い私は成功(?)したほうの分岐点ルートに入ったわけだが、あのとき彼のケータイをパカッと見てブチギレられた末に振られていたほうの分岐点ルートもあり得たのだ、という感覚は今でも強い。人生のさまざまな分岐点を思い浮かべながら「もしもあのとき」という思いに駆られたことがある人はきっと少なくないはずで、今回のアルベルト・モラヴィア『軽蔑』は、個人的にはそんな経験のある人たちに読んでもらいたい小説だ。
あなたを軽蔑する、あなたに触られるとぞっとする
『軽蔑』は、イタリア人作家のアルベルト・モラヴィアによって1954年に刊行された小説である(私が読んだのは、池澤夏樹=個人編集 世界文学全集『マイトレイ/軽蔑』)。ストーリーをすごく簡単にまとめると、仲睦まじかった夫婦が、原因があるようなないような微妙なすれ違いによって、悲劇的な別れに至るまでの物語だ。妻を失った夫の嘆きは美しくも痛ましく、さきほどの「ケータイ見る見ない話」と一緒にしちゃいけない気がするが、まあそれはそれとして。
タイトルの『軽蔑』は物語のなかで妻が夫に告げるセリフなんだけど、「あなたを軽蔑する、あなたに触られるとぞっとする」って、性別関係なく愛する人にもっとも言われたくない言葉ではないだろうか。
なぜ妻は、一度は生涯をともにする決断をしたほど愛した夫のことを、「軽蔑」するまで憎悪するようになったのか。夫婦はどこですれ違ってしまったのか。気になる人は実際に小説を読んでもらいたいのだが、結論からいうと、よくわからない。あのときのアレが原因だったような気もするし、やっぱり自分(主人公・夫)が悪かったような気もするし、いや妻が一方的に勘違いしてただけじゃ!? って気もするし。しかしなんにせよ、進んだ時計の針を戻すことはできない。
- 1
- 2