新たな発見か、または説教臭さを感じるか……15年越しに教科書の作品を読んでみたら

教科書によく載っていたあの作品

by Lenin Estrada

現在、Facebook上での私の「友達」は50人程度である。そもそもFacebookにアカウントを登録したのが2016年とかなり遅めで、それも目的が「仕事関係の人とメッセンジャーで連絡を取り合うため」だったから、50人の友達のなかに小中高の同級生にあたる人物は1人もいない。というか、同級生に見つかるのが嫌なので、卒業した学校も出身地も登録していない。

こういうFacebookの使い方が珍しいのかよくあるパターンなのかわからないのだが、とにかくそんな有様なので、私は「同窓会」というやつにまったく顔を出さないし、顔を出そうにも同級生たちとの連絡手段がないので、「同窓会」とやらが開催されているのかどうかも知らないのであった。まあ、私の出身地である神奈川県は郷土愛薄めなので、たぶん開催されていないんじゃないかなあという気はするけど……。

そんな具合で同級生たちには「私のことは死んだと思って忘れておくれ」と思っているのだが、最初から薄情だったわけではなく、実は高校を卒業してから1年後くらいのときには、友人と母校を訪れ3年生のときの担任の先生に会うなんてことをしている。訪れた目的はあくまで出席日数がギリギリで先生にお世話になった友人の付き添いだったのだけど、意外にも先生は私に、「あなたは高校を卒業してよかった。もっと広い世界で自由にやるほうが、あなたの能力を発揮できると思っていた」と、しみじみ言ってくれたのだ。高校時代、問題児でも優等生でもなかった私のことなんて先生は何も見ちゃいないだろうと思っていたのだが、先生はクラスのすべての生徒のことを、それなりの考えを持って観察していたらしい。

思い出話をしたくなったのは、鷺沢萠の『海の鳥・空の魚』を先日読んだから。鷺沢萠といえば、高校の教科書や現代文の入試問題に、よく作品が載っていた。『海の鳥・空の魚』の中にも、「これは高校時代に読んだな」と覚えのある短編がいくつかあった。

「小さな枠」の外で生きるのは簡単じゃない

『海の鳥・空の魚』には、ごくごく短い短編だけが20作品載っている。高校生が触れるのは『指』『ほおずきの花束』あたりだと思うが、私が読んですぐに「これは……昔読んだ!」と思ったのは、『東京のフラニー』。たしか現代文の問題集に載っていて、受験生のときに読んだのだったと記憶している。

短い話なのであらすじというほどのものもないけど、『東京のフラニー』の主人公の裕子は女子大生だ。デパートのコスメフロアを見ていた裕子は、雑誌で読者モデルをやっているフランス語学科の絵美がつけていたのと同じ色のマニキュアを、そこで購入する。だけど、自分は別に絵美のことが好きなわけではない。ただまわりに遅れをとらないようにと、それだけを考えて、読者モデルの絵美と同じ色のマニキュアを買ったのだ。裕子は、そんな自分に嫌気がさす。

後日出席した比較言語学の講義で、裕子はサリンジャーの『フラニーとゾーイー』について教わる。「とても小さな枠の中で、その中の価値観だけを信じて暮らしている皆さんは、ひどく奇異に感じられることがあるんです」と言う教授の言葉を聞いて、裕子は呆然と窓の外を見つめる……と、本当にごくごく短い作品である。

こんな教授がいたらちょっと説教くさくて嫌だな〜と思うのは、私が30代未婚の非正規雇用社員というなんとも心許ない身分で、「小さな枠」の外にただ自由なだけの安寧な世界が広がっているわけではないことを痛いほど知り、小さな枠の外で生きるのは、そう簡単なことじゃない」と思っているからかもしれない。

だけど『海の鳥・空の魚』にはこの『東京のフラニー』をはじめ、衝撃的な大事件でも人生を揺らがす悲劇でもない、すぐに忘れてしまうような小さな気付きの瞬間が、たくさん詰まっている。