将来襲ってくる「寂しさ」に備えて
どうやら、人は結婚したほうがいいらしい。将来、寂しくなるから。40代や50代になったとき、定年退職後に時間を持て余したとき、家庭をもたなかったことを後悔することになるから。
先日、Twitterでそんな発言を見かけてしまった。ほんと? 本気でそう言ってんのか!? なに冷静なふりして俯瞰してんだよ、他人の人生をよ! 馬鹿! と、ちょっとびっくりしてしまった。
最近は職場の人に会う機会も、新しい人間関係を作る機会も激減した。そのため、私の人生をとやかく言われることも、比例するかの如く減る。かなりいいことである。しかし、いい年して結婚もせず、子どもも産まず、挙句の果てに焦る様子も見せずにヘラヘラ生きる私のような人間に、他人は何かを言いたくなってしまうらしい。本気で心配しているのかもしれないし、正しいアドバイスなのかもしれないが、大きなお世話であることには変わらない。
寂しさとか孤独って、一体なんなんでしょうか。人生のテーマのひとつでもある気がしているのだが、コロナ禍で以前より深く考えるようになった。だって、私はこれからもひとりで生きていかねばならないかもしれない。いるかどうかもわからない他人の存在に希望を持つくらいなら、ひとりでも生きていける準備は進めておいたほうがいいだろう。
「将来、寂しくなるかもしれないから」「後悔するかもしれないから」という未来の仮定のためにそういう他人を探すのは、少し違うんじゃないかなと思っている。
私が、このまま結婚も出産もせずにずっとひとりでいて、40代50代になってから本当にどうしようもない孤独に苛まれたとしても、自分の気持ちのために他人の人生を巻き込むのは絶対に違う。そんな些細な理由で、人は死ぬまで誰かと一緒に暮らしていくことができるのだろうか。私が結婚に夢を見すぎていて、理想が高いだけかもしれないが。
私はひとりでいることが苦ではない。なんでかなあ。明確な理由なんてない。でも、単純に慣れてしまっただけなのかもしれないとも思う。それでも寂しさや孤独を感じることはたまにある。そのときは、じっと待つ。私は、この感覚がいつか必ず終わることを知っている。波がゆっくり引いていくのを、静かに待ち続けるのだ。
この感情の波が他人と一緒にいることで消せるなんて、何に対しても不安を覚えずに生きていけるなんて、そんなことあるんだろうか。人といることでどこかへ消えていく感情を寂しさや孤独と言うのなら、私が人といるときに感じる明確な境界線や、話をしているときに時折覚える感覚のすれ違いは、一体なんだというのだ。これを寂しさや孤独と呼ばないのなら、私はどんな言葉で表現すればいいのだろう。
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