30代以降の悩みとは
数年前の、私がまだ20代後半だった頃――まわりは、男の人に騙されたり恋人と長続きしなかったりを繰り返す、精神状態がグラグラの自称「メンヘラ」の女の子たちで溢れかえっていた。しかしあれから数年、30代になった私のまわりはというと、当時「メンヘラ」を自称していた女の子たちはいつの間にかいなくなり、みんな結婚や出産を経て立派にメンタルが安定した女性になっている。
メンタルが安定したことは素直に祝福したいことだし、他人の不幸をエンタメ的に消費したいわけじゃないから「みんないなくなっちゃって寂しい」みたいな感情もあまり持っていないんだけど、ただ「あの頃の”アレ”、なんだったんだ!?」と、正直ちょっと拍子抜けしてもいる。いや、みんな幸せになってよかったなあと思ってはいるんだけど、「不治の病だと思っていたものはぜんぜん完治する病だったんだな……」みたいなね。いまこれを読んでいる人で、この感覚に1人でも共感してくれる人がいたら嬉しい。
これは元「メンヘラ」の今は幸せな女性たちにも、そしていまだ独身の私にも共通していえることだけど、30代になって数年経つと「交通事故で大怪我!」みたいな、恋愛関係のヒリヒリする胸の痛みからはけっこう解放される。ただ、それで心が365日晴れわたるようになるかというとまったくそんなことはなくて、今度は不定愁訴的な、原因がよくわからない頭の重さや体のだるさに悩まされるようになる。ポール・セローの『ワールズ・エンド(世界の果て)』は、そんな30代以降の大人の、原因不明の満たされなさを描いた短編集だと思う。
「お母さんのお友だち」って、誰?
ポール・セローはアメリカの作家で、よく旅をしているらしいこともあり、世界各地が小説の舞台になっている。『ワールズ・エンド(世界の果て)』でいえば、イギリス、コルシカ島、アフリカ、プエルトリコと、収録されている9つの短編の舞台はバラバラだ。今回はその中でも、表題作『ワールズ・エンド(世界の果て)』と、『ボランティア講演者』という2つの短編を紹介させてほしい。
まず、『ワールズ・エンド(世界の果て)』の舞台はロンドン。個人的には「世界の果て」といわれると昨年旅行で訪れた南米の最南端都市ウシュアイアを連想してしまうんだけど、『ワールズ・エンド(世界の果て)』の舞台はウシュアイアではなくロンドンで、しかも実在する地名らしい。このワールズ・エンドに、主人公と妻、そしてその息子がアメリカから移り住んでくるところから物語は始まる。夫婦仲もよく、息子もまだ6歳で特に問題なども起こさず、すべては上手くいっている。主人公は、黄色い街灯に照らされる水滴に囲まれながら、雨の中を帰宅するのがとても好きだ(この雨の描写がとても美しいところも、個人的にグッとくる)。
なんとなく不穏な空気が漂い始めるのは、主人公が息子とともに凧揚げに行ったとき。息子の言動にふと疑問を覚えた主人公は、「誰がそんなこと言った?」と問いただす。返ってきた答えは、「お母さんのお友だち」――。すべて上手くいっていると自他ともに言い聞かせてきたけれど、家庭生活にはすでに綻びが見えている。結局「お母さんのお友だち」が本当に妻の不倫相手だったのかはよくわからないまま話は終わるのだけど、この微妙な綻びと、それに伴う不安や疑念の描写が、すごくリアルで気持ち悪いのだ。
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