「大粒のラメをつけて新大久保ではしゃぐこと」と「歳相応」は両立する/ダリッタ

「いい歳して――」
 他人から向けられるそういった視線や言葉を恐れ、萎縮し、自由に生きられずにいる人がたくさんいるのではないかと思う。

自分が若者としてその特権をフルに使いながら闊歩していた時分は「そういうことで悩んでる人もいるのね。勿体無いね」と、今思えば他人事としてしか認識しておらず、わずかな問題意識と同情を抱くにとどまっており、あまりピンときてはいなかった。

そんな私も今月で30歳になる。最近、特に周りで自分自身を牽制するかのように「もう歳だし」などの枕詞をつける人間が増えてきたように思う。

そしてまさかとは思ったが、そんなの関係ないもんね〜とたかをくくっていた私自身もその呪いの言葉にあてられてしまったらしく、油断すると「もう30歳だし…」などと口走り自らの行動を制限しまっている時があるのだ。

「歳相応」を意識したら

ただ、「歳相応」を意識すること自体は必ずしも悪いことではないと思っている。

私はまともな教育を受けていないこともあって、一目見ただけで育ちが良くないことがわかるほどの酷い箸の持ち方で、恥ずかしげもなく25歳まで生きてきた。別に箸の持ち方が酷いこと自体罪だとは思わないが、それを直そうと思ったきっかけは、「歳相応」を意識してのことだったと思う。

若さというものは時に免罪符となる。この箸の持ち方について、若い頃はあたたかい目で見守られていたり、面白がられていたりで済んでいた。しかし、ふと25歳にもなってこれはやばすぎると気づいた。若いうちはいいが、このままの状態で社会で生き残るのは非常に困難なのではないかと焦り始めたのだ。そもそもこんな箸の持ち方で食事をしていては、きっと付き合える人間が限定されて、自分の可能性を狭めることになるかもしれない。

他にも、一般常識や一般教養が欠けているということもあり、47都道府県の理解すら怪しかった私は、くもんの「おふろでレッスンにほんちず」をお風呂に貼って生活していた。

私にとっての「歳相応」を意識し始めてとったこれらの行動は、結果的に自分にとって全てプラスに働いたと思っている。

また一方で、先日は同い年の友人に誘われて、数年ぶりに若者の聖地である新大久保へ行った。せっかくだからと勇気を出して、自分の年齢を忘れ、大粒のラメや発色のいいリップなどを使って普段は絶対にしないメイクを好きなように施し、ビビットカラーのヘアピンで前髪を留めて、道ゆく女子高生や女子大生に混ざって存分にはしゃぎ倒してきたのだが、本当に楽しかった。

年齢を気にして自分に足枷をつけた状態では、傍観者として街を歩くことしかできなかったと思う。それはそれでいいが、プレイヤーとして街を楽しんでいる間、とても自由な気分だった。ずっとこうであればいいのにと願った。そしてそれは自分の意識次第で実現可能なのだ。