結婚に「なに」を求めているのか?
おそらく独身のまま来年には34歳を迎える私だが、この年まで独身でいると、ふと疑問に思うことがある。それは、世の中のカップルはいったい結婚の「なに」を求めて婚姻届を提出するのだろうか? ということである。
そういうと、ある人は怪訝な顔をして「愛だよ」というかもしれない。愛は別に否定しないが、もう少し具体的に教えてほしい。愛、すなわち法律的にいうと貞操に関する義務のことだろうか。他の人と肉体関係を結んだときに、罰則があるのが「愛」?
ある人は、「家族になるため」というかもしれない。これも、家族は別に否定しないが、もう少し具体的に教えてほしい。病気や事故で入院したとき、身辺の世話や法的な手続きができるのが「家族」? こちらは、個人的には「愛」よりは腑に落ちる。でも、万が一のことがあったときに身辺の世話をする相手として考えるなら、そこに恋愛っぽい感情を絡める必然性がわからなくなる。私も、万が一のことがあったときに世話をしてくれる相手が父や母以外にもいたほうがいいなと思うことはあるけれど、よく考えたらそれって女友達でも別に問題はない。
つまり、結婚の「なに」を求めて……というのは、現行の婚姻制度がさまざまな事項を一括で契約しなければならない構造になっていることへの疑問だ。
2人の貞操義務に関することと、法的な手続きに関することと、子供の親権に関することと、財産に関すること。もしも一括ではなく、バラで契約することも可能な社会になったとしたら、あなたは誰と、どんな契約を結ぶだろうか。貞操義務契約を交わす相手と法的な手続き契約を交わす相手が別だって、特に問題はないような気がする。
鎖国政策が敷かれる日本と数々の不穏なルール
与太話から始めてしまったけれど、今回扱う本は多和田葉子さんの『献灯使』だ。
『献灯使』の舞台である日本は、長きにわたって鎖国政策を敷いているらしい。東日本大震災の原発事故がその要因になっている雰囲気はあるけれど、本当の理由はよくわからない。あるいはまさに今、新型コロナウイルスの影響で日本は鎖国も同然の状態なので、何かのウイルスが要因なのかもしれない。
ただ今の日本とちがうのは、海外への渡航だけでなく、外来語やインターネットの使用も禁じられていることだ。当然ながら、なぜ外来語やインターネットの使用が禁止なのか、その理由はよくわからない。「よくわからないけどなんとなくやらないほうがいいっぽい」という雰囲気だけがある。そして、そんな日本・東京で、100歳を過ぎている作家の義郎は暮らしている。義郎はひ孫の世話をしているが、ひ孫の無名は体がとても弱い。無名だけでなく、若い世代はみんな体が弱いため、着替えるだけでも体力をものすごく消耗してしまう。
義郎や無名が暮らす日本では、小学校などでの身長測定が廃止されている。理由は、子供は布や紐ではないのだから、まっすぐ縦に伸ばしてその長さを測るなんて非人間的である、というもの。こんなふうに、わかるようなわからないような、必然性があるようなないような、大小さまざまなルールのなかで義郎や無名は暮らしている。そのルールに疑問を持つ者はほとんどいない。
『献灯使』はいわゆる「ディストピア小説」であり、全体を通してとても不気味だ。ただ、それがはたして今の日本とどうちがうのだろうと考えると、そう変わらないような気もしてくる。
貞操義務契約を交わす相手と法的な手続きに関する契約を交わす相手が同一でなければならない理由は? バラ契約が不可能で一括契約をしなければならない理由は? 一括契約を交わすことが「愛」であるとされる価値観の根拠は?
『献灯使』を読んでいると、「なんかそういうことになっているけど、このルールの必然性ってどこにあるんだろう?」なんてことを私は無限に考えてしまうのである。
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