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「めちゃくちゃに犯されたい」淫らな欲望を“ポリコレ違反”で切り捨てていいのか

不自然に漂白され続けている世界

by Shot by Cerqueira

私には今、悩んでいることがある。その悩みとはずばり、「セックスにSだのMだのという役割を持ち込んでプレイすることは、ポリティカルコレクトネスに違反しているのか?」ということである。読者の皆さまにおかれましては、いきなりなんだコイツと思っているだろう。が、もう少し話を聞いてほしい。

これまで私はこの連載において、「男らしさ/女らしさの規範から逃れよう」とか、「モテとかよりも相手と健全な関係を築くことのほうが大切だ、主張すべきことは主張しよう」とか、わりと今の時代感に合っているっぽいコラムを書いてきたと思う。しかし、話がセックスや欲望そのものとなると、ちょっと口を塞がれてしまう。

SはサービスのSだ! なんて解釈もあるけれど、ひねらずに考えると、Sとは支配、Mとは被支配である。「支配/被支配という関係は健全ではない」「淫らな男女関係はよろしくない」という価値観が席巻する現代社会において、夜になったからといきなり、その価値観をひっくり返せるものなんだろうか。もちろん、私は夜の世界でくらいひっくり返してもいいだろうと思っているのだけど……。

もうひとつこの話を困難にさせるのは、私が現在33歳であり、周囲に既婚者が増えていることだ。夫婦とは健全な男女関係であり、健全なセックスをするものであり、不倫やセフレは言語道断である。こういった前提条件が多くの場では共有されているので、SMのような「不健全なセックス」の話をする場は激減している。私だって決してドエロの変態野郎というわけではないんだけど、なんとなく、世界が不自然に漂白されていくような虚しさを感じることがあるのだ。

文学の世界でだけでも淫らな関係を楽しんでもいいのでは

前置き(というか、私のお悩み)が長くなったが、今回扱うのは鹿島茂さんの『悪女入門 ファム・ファタル恋愛論』である。femme fatale、仏和辞典などだと「宿命の女」と訳されるそうだが、もとのフランス語のままのほうがエロティックな響きが残るので私は好きだ。

ファム・ファタル、男性を誘惑して破滅に導く存在。バルザックの『従妹ベット』やユイスマンスの『彼方』、エミール・ゾラの『ナナ』やジョルジュ・バタイユの『マダム・エドワルダ』などのフランス文学に登場するファム・ファタルから、男性を誘惑する術を学んでみようというのが本書である。

多くの人が求める健全な男女関係や夫婦関係では、相手を破滅させたら自分も一緒に破滅してしまう。結婚を考えている恋人や夫に、多額の借金を背負わせるわけにはいかないだろう。だから、「ファム・ファタルの誘惑術を学んでみよう」という本書は率直にいうと、私と同世代の女性に勧める本としては微妙である。しかし、不倫をしたりセフレを作ったりできないなら、せめて文学の世界でだけでも淫らな関係を楽しんでもいいのではないか……という考えのもとでの、あえてのチョイス。

健気を装って男性を騙したり、男性の財産を無尽蔵に食い尽くしたり、自分に貢がせるために親友を捨てさせたり、誘惑の本当の目的が復讐だったりと、フランス文学に登場するファム・ファタルたちは不健全のオンパレードだ。

もちろん、そこから何かを学びとって現実に活かすもよし、あるいは反面教師として「こういうことはパートナーにしないでおこう」と決心するもよし。ただ、最近の私は漂白され気味の世界に少し辟易していたから、『彼方』に登場する女性が黒ミサの儀式で精液に浸したパンを食べているシーンの描写などに、「やっぱりフランス文学は美しいな!」と感心してしまった。

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