「特別な人はいないの?」の煩わしさ
先日、映画『フェアウェル』を見た。中国に住む祖母に余命宣告をするのか? それともしないのか? というのが主題であり、家族を中心にして、話が進んでいく。
主人公のビリーは、5歳の頃からNYに住んでいるアメリカ人である。中国語もあまりうまくないようだ。中国とアメリカ、東洋と西洋。似ている部分もあるかもしれないが、異なる文化や習慣のほうが多い。そのひとつが余命宣告。中国では最後の最後まで本人に黙っているのが当たり前らしい。ちなみに日本では、家族との相談のうえで本人に伝えるかどうか、決めるみたいだけれども。
どうせ死ぬなら、知らないままの方が本人のためなのだろうか? けれど、家族は知っているのに本人にだけ知らせないのは誠実といえるのだろうか? 映画を見ながら、はっきりとした正解を導きだすことが私にはできなかった。ラストシーンを見終えた後、今まで抱いている気持ちが自分のなかでガラッと変化するのだが……。
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ビリーは学芸員になることを目標としている30歳の女性だ。家賃を滞納していることからお金を持っているとは言えないし、友達はたくさんいるがボーイフレンドはいない。そんな彼女は久しぶりに会うナイナイ(中国語で「父方の祖母」)から、「特別な男の人はいないの?」「あなたが結婚するときには、もっと盛大に式をするからね」という“帰郷あるある”をさも当然かのように言われる。
日本でもよく見られる光景だし、そういえば私もいつも言われていたよなと遠くに住む祖父母を思い出しながらフッと笑ってしまう。私も「早くひ孫の顔が見たい」「結婚の報告、待ってます」と祖父母に言われる度、適当にはぐらかす。私に、結婚なんてできるはずないのに。
今の世の中で幸せの形はひとつだけではない。どんな仕事をしていても、友達がいてもいなくても、結婚してもしなくても、子どもがいてもいなくても、別にいい。それぞれの人が考える幸せがあって、私たちは互いに思い描く幸せを認め合わなければならない。
私の幸せはなんだろう。とりあえず、仕事を頑張りたい。文章も書き続けたい。そして何より、自分の力で生きていたい。結婚適齢期もど真ん中で、今が過ぎれば生涯独身でいる可能性は高くなるだろう。でも、今のところはそれでもいいと思っている自分がいる。私には、恋愛や結婚よりも自力で生き抜くサバイブ力を身に着けることの方が、ずっとずっと大切だし、そんな私の生き方がかなり気に入っている。人から見れば孤独にも寂しそうにも見えるかもしれないが、割と満足度の高い毎日を送れている気がする。私は、私の今の生活が好きだ。
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