それでも湧き上がる邪悪な感情

そうはいっても、無邪気でいることって難しい。何しろ私たちの、本来真っ白な心を汚す「邪心」はふとしたきっかけで、風船のようにどんどん大きく膨らんでしまうものだからである。

私たちはこの世に生を受けた直後から、良いこと、悪いことといった道徳を学ぶ。でなければ、社会が無秩序になって、穏やかに暮らしていけなくなってしまうからだ。でも、道徳心を持つのと同時に、非道徳的な行動の引き金となる邪悪な感情が、少なからず自分の中に存在していることにも気付く。具体的には先に述べたような嫉妬心や、憎しみ、嫌悪といったものだ。それらは本来、光あるところに影があるのと同じように、自分の中にあって然るべきもの。

ところが、ネガティブなもの、邪悪なものと定義されてしまったがゆえに、中にはそれを完全にないものとして、見て見ぬふりをしたり、がっちり奥底に閉じ込めたりしてしまう人もいる。そうするとどうなるかっていうと、ときに家族や友人といった身近な他者から、自分が閉じ込めた邪悪な感情が噴出するという驚きの現象が起きるらしい。

これは学生時代、中2病をこじらせて読んでいた心理学の本に書いてあった話で、こういった学説は時代とともに評価が変わるものだし、現在専門の方々からどういう扱いを受けているのか定かではないけれど、少なくとも当時の私は大きな衝撃を受けた。実際、誰もが認める人格者の子供が、どうしてだか手もつけられないような荒くれ者になっちゃった、というような話を聞くにつけ、正しくあろうとすることと、それでも湧き上がる邪心と、折り合いをつけていくのは非常に難しいことなのだと思わされた。

いっそ健康的に殴り合おう

人間として当然ウンコをするアイドルが「ウンコをしない」とされているように、今の世の中、男性も女性も不自然なまでに無邪気であることを望まれるし、好かれるためにそうあろうとする。けれど言うまでもなく、誰の中にも当然、邪気はある。怒りは怒りとして、妬みは妬みとして、沸き起こったものを適切に処理できない状態が続くと他者に投影されることもあるかもしれないし、そうでなければ本人が病んでしまうかもしれない。

そもそもマウンティングなんて不愉快なもの壊滅すればいいと思うけれど、一方で、誰に教わったわけでもなく、誰に強いられているわけでもなく存在させてしまう以上、マウンティングって実際に動物としての逃れられない習性なのかもしれないとも思う。……そうであるとすれば、いっそこの際、健康的に殴り合うというのはどうだろう。
誰かの圧倒的な眩しさに足元がつい、ぐらつきそうになったら、「存在が嫌味!」「地べたを這うように努力して何が悪い!」って具合に、いっそ口を思いっきりへの字に曲げて、いじわるばあさんのように文句言ってみる。そしたら相手も「私だって死ぬほど努力してる!」って、健康的に言い返してくるかもしれない。そしたら、「やっぱそうだよね、ごめん」って謝って、抱き合ってお互いの労をねぎらい合ったらいいんじゃないか。

……そりゃさすがに横暴だと仰るようなら、せめて、無邪気な相手を前についあらわになった自分の邪気を悪者にするのをやめよう。世の中が世の中として立体的に存在するために不可欠な影の部分を、止むを得ず一身に背負った悲しいヒーロー、それがマウンティングされた「わたし」である。わたしが苦虫噛み潰した顔をして見せれば見せるほど、誰かがその分幸せになっている。人の幸せに貢献できるなんて素晴らしいことである。わたしを踏み台にして形成される他人の幸せを心から祝福しよう。

おかしなことに私たち、いつもニコニコしてる人を差して「無邪気」というけれど、一方で喜怒哀楽、全ての感情に正直な人のことだって「無邪気」と言ったりするのである。確実にあるものを無視したり押し込めたりするのでなく、あることを認めて、発散させる、あるいは、中和させる。そんな風に、何らかの形で自分の中の邪悪な気持ちを適切に処理し続けていれば、今はぐらついてばかりの私の足元だってそのうち、ちょっとやそっとじゃ動じない、強度の高いものに仕上がっていくんじゃないかと、そんな風に思うのだ。

Text/紫原明子

※2015年9月10日に「SOLO」で掲載しました