遅ればせながら、あけましておめでとうございます。2019年も宜しくお願いいたします。
前回のコラムで綴った「念願のタイトル獲得をかけた決勝大会」にあえなく敗退した私ですが、そうなったらそうなったで、再び挑むビジョンを即座に見据えることになるんですね……。ピリオドを打つつもりが、退場時ほとんど反射的に「また必ず(この舞台へ)戻ってくるから!!」と、飛び出していた自らのシャウトに笑ってしまいました。
おかげさまで前向きな日々を過ごしております。その節は応援ありがとうございました。
意識的なリセット
年末の大イベントが終了し、ようやく実感した年明けムードも手伝ってか、じくじくした気持ちと解放感とが同居していた大晦日。あと数時間で年越しを迎えるこの日の高揚感って子供の頃から大差ないかもな~なんて考えながら、テレビがある、それだけを理由に選んだ近所の居酒屋でまったり紅白を眺めていた(私の家にテレビは無い)。
そうしているうちに日付を跨ぎ、次の瞬間から昨日を昨年と呼び、急によそよそしい間柄として扱いだす。毎年のことだが、フレッシュさを演出する感じがなんだか可笑しかった。すべて地続きなのに……って、ひねくれだろうか。
ともあれ今、すでに代わり映えのない日常に鬱屈した気持ちを抱きつつある。
せっかく立てた新年の抱負を前にして、“臭いものに蓋をした状態のあれこれ”に足踏みしている感じだ。
終わりのエネルギーと始まりのエネルギーが混在する節目に行うべきは、”意識的なリセット”なのかもしれない。
元から備わっていないリセットスイッチをONにするために、まずは心の掃き溜めで呼吸を続ける”未練”を埋葬したい。
通り過ぎた縁
私の2018年に刻まれた最も愉快じゃない記憶の一つに、親しかった人とのケンカ別れがうかぶ。絵に描いたような激しい“絶交”だった。
すごく近しい関係を築いたけれど、根深い部分では拒絶し合っていたような、無理のある縁だったようにも思う。バランスを崩せば、途端にガラガラと音を立てて粉々になった。
相手の非と自分の非を客観視して秤にかけてみたり、周囲に相談してみたりしたが、すぐに疲れてどうでも良いやと投げ出した。
彼と共存していたコミュニティを私が抜けるはめになったことは納得いかなかったが、周囲のグルーヴを整え直す過程も、思いのほかあっさりと過ぎ去った。
しばらくは“そんなに私が許されないことをしたのか?”を問い続けてしまって感情的にもなったが、今はシンプルに、「彼は私を許せなかった」という結果だけを捉えている。
そうすると、私の心に未練のしこりを残す必要はない気がしてきた。
だって、周囲の人間関係から私を追放したのは、彼が自分の心を守るためであって、彼の問題だから。
総じて、過去には必要だった縁も、この先必要なければ離れていくもの。そう思えば納得できる。
確かにあの一件以来、彼の意見が必要になるようなタイミングは一度も無かった。
今振り返るとしたら、“自分に何を学ばせるための縁だったのか?”その点だけで十分じゃないだろうか。通り過ぎた縁を悲観するのはもうやめよう。
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