「寂しくないの?」と聞かれることが増えて
私は一人で出掛けることが好きだ。
旅行も映画も飲み屋もカラオケも、一人でも楽しむことができる。
元々から備わっていた気質ではなく、10代の頃から徐々に免疫をつけてきた。
いつだか憧れを感じた「自立した女性像」をなぞり書くように、チャレンジを重ねた経緯は“おひとりさまの私”ってなかなかイケてるんじゃないか? と感じられたから(単純)。
それに、「誰か」の存在を求めるが故に、自分の欲求を叶えることができなかったり、適当な人選をして余計な歩み寄りをする、そんなつまらないストレスから抜け出したかった。
もちろん、タイミングよく気の合う同伴者が名乗りを上げてくれたら大歓迎だし、むしろありがたい。
誰かと一緒に過ごす楽しさがプラスアルファだとしたら、おひとりさまはゼロベースの認識だ。なおさら土台が強く豊かであるに越したことはない、と考える。
ところが、最近やたらと「寂しくないの?」と聞かれることが増えた。中には、「結婚願望とか、ないの?」がセットで付いてくることもある。
そろそろ身を固めましょう、な年齢に差し掛かったからなのだろうか。
うーん。ゼロベースの充実は減らないけど、「誰か」がもたらすプラスアルファって、マイナスに振り切ることもあるよね…?
寂しさの感情を否定はしないけど、寂しさを理由に手繰り寄せる「誰か」って、そんなに重要…?
なんて疑問が心の中で反芻するが、この場合の「寂しくないの?」とは、一人の時間を楽しむ行為に対してだけではなく、“一人分の人生を生きること”への不安を指した問いかけなのかもしれない。
みんな「ひとり」を恐れて、焦っている。
「ひとり」を恐れる気持ち
たしかにかつて私にも、寂しさが心で暴れる時期はあった。余裕のない孤独に取り憑かれて「誰か」を求めてみたが、本当の意味で満たされることはなかったように思う。
孤独の沼から私を連れ去ってよ!
でも、そんな重たすぎる願望を飼い慣らした可哀想なヒロインに、手を差し伸べるヒーローなんて現れやしない。
“一人分の人生を生きること”が充実すれば、自然と寂しさが暴れることはなくなった。
無理に排除するより、寂しさも美しい感情の一つとして上手に付き合っていくことが大切かもしれない。
寂しさ=人と寄り添い生きることを諦めない気持ち。
そう考えてみたら、生命力に溢れたエネルギッシュな感情として肯定できる気がする。
「寂しくないの?」に感じる違和感は、私が何かを諦めたわけじゃないのに、タブー視するような空気を含むところにもあった。
恋人がいない、というだけで幸せじゃない認定を下された時の気分と似ている。
「誰か」がいれば幸せと直結すると信じ込むのは危険だと思う。だって私は「誰か」の付属品じゃない。
“私を幸せにしてくれる人”の募集ばかりが溢れているけど、
“幸せな私の傍にいたい人”の募集があっても新鮮じゃないか。
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