よかれと思って。

「女扱いしないで下さい」
私は弟子入りの際に親方にそう申し出た。言葉が正しかったかは分からないが、親方なりに受け止め、迷いながらも、親方は最後までこの申し出を守ってくれた。

 親方は誰からも一目置かれる熟練者。そして人使いの荒さと口調の厳しさに定評のある人だった。それはそれは容赦なく、私もコテンパンにしごかれた。
私たちの担当するスパンにはいつも罵声が飛び交った。いつも一番過酷なポジションに私を配置した。重たい材料はいつも私に持たせた。私のヘルメット目掛けてノコギリが飛んでくることも日常だった。
チクショー、この鬼が! …と心の中で悪態をつく日々だったが、「女扱いしないで下さい」の意志はキチンと汲まれていたことになる(苦笑)。
建て込みも固めもスラブ貼りも墨出しも梁掛けも解体も…鬼の親方のもとにいたから、できることがどんどん増えた。

 そんな「鬼」の親方に本当の意味で感謝したのは、もっと後になってからだった。

 見習いから大工になり、一端の職人として一人で応援(他下請け業者への一時的な加勢)に呼ばれるようになった私は、すぐに気が付いてしまった。
女扱い、の現実に。

 よその親方たちは、女の子だから…と私が請け負う仕事のハードルを勝手に下げてしまうのだ。
私できます、やらせて下さい。と志願したところで、いいよいいよ女の子なんだから無理しないで、と軽作業に回そうとするのだ。
高い足場に登って外部の作業をしていたら、女の子がそんな高い所で仕事したら危ないから降りて、と言われたこともあった。
私より経験の浅い見習いに建て込みの仕事をあて、私には日焼けするといけないから、などと理由をつけ、屋根のある場所で箒を持たせようとする人もいた。

 私だって職人なのに…できることを片っ端から取り上げられてしまう現実は苦痛だった。
何年もの下積みを全て否定された気がした。
日の当たらない鉄筋コンクリートの部屋、ひとり廃材を拾いながら私はこっそり泣いた。
悔しい、悔しい、悔しい…。

 何が悔しいかって、これらは決して私に向けられた悪意ではないことを理解していたから。
ほとんどが、「よかれと思って」の押し付けだったから。
女の子だから、可愛そう。女の子だから、キツかろう。女の子だから、日焼けしたらいけない。女の子だから、危ない。女の子だから…。

 私の経験も実力もまるで無視。勝手に妥協して下げられたハードルを前に、優しさとは何かを考えた。「よかれと思って」を纏った不当さを責めることもできず、ひとり考えた。
もし、弟子入りしたのが鬼の親方のもとじゃなかったら…?
私は何年経っても職人としての腕は磨けなかったかもしれない。「よかれと思って」に巻き取られて、消えてしまったかもしれない。しかも、それすら「女の子だからしょうがない」にこじ付けられたかもしれない。

 男性がほとんどの人口を占めている職種において、「女には無理」を唱える人は未だに存在する。ガテン系女子として身を持って「やろうと思えば無理じゃない」ことは証明できたが、内包する問題は無視できない。
女の問題として取り合おうとしない男性優位な構図に危機感を持つのは、私の経験したリアルからだ。

 肉体労働は本当に楽しかった。身も心も健康になった。やっていれば自然と筋力も付くが、力より必要なのは要領で、重たい材料も要領さえ掴めばヒョイっと扱える。女性でも勿論できる。むしろオススメしたいくらいなのに…!

 上京前日、鬼の親方と最後の仕事を終えた帰り道。
感謝と共に私は伝えた。

「もし、私のような小娘がいつかまた親方のもとにやってきたら、私と同じように容赦なく育ててあげて下さい」

「…お前みたいなやつはもうおらん」と親方は冗談っぽく笑いながら、最後は頷いた。

 これからきっと出てきますよ。

 END

Text/椿

次回は<極端に嫌われてもいい、極端に愛されるなら。/椿>です。
「嫌われるのも一種の才能」だと語る、ラッパーの椿さん。「開き直る力」「孤立できる強さ」、そして「嫌われることを恐れない」スキルをもつことの重要性を語ります。「愛されない」と嘆く前に、私たちにできることとは。