先日、部屋にある本を整理していたら、ひと昔前に買った「モデル本」が、埃をかぶって出てきた。モデル本というのは、雑誌等のファッションモデルが自身の私服コーディネートや使用しているコスメや部屋のインテリアなどを公開してくれる、美容やおしゃれ魂に効きそうな女性向けの本である。久々にそのモデル本のページをめくりながら私は、自分がなぜその本に埃をかぶせて本棚の奥に押しやってしまったのか、当時はまだ言語化しきれなかった「違和感」を、まざまざと思い出した。その本のモデルは、恋愛について語るページで、旧来的なジェンダー観ゴリゴリのかなり保守的な自分の恋愛観を、ためらうことなく開陳していたのである。
彼女の部屋のインテリアも、体型維持のために欠かさないというジムでの運動も、ファッションもコスメも、全部素敵だと思うし憧れだ。だけどその上に立つ価値観が、「女性は男性に選ばれて初めて幸せになれる」「男性に選ばれるために服を選ぶ」「恋愛なしの人生なんて寂しい」とかであると、素敵に見えたモデルの私服もライフスタイルも、その瞬間にすべて色あせてしまう。ただ、この本を買った当時はまだ、「私のほうが考えすぎで、私だけが気難しい女なのかもしれない。こんなところに違和感を覚えるのはおかしいのかもしれない」と、思ってしまうところがあった。この人はモデルだし、作家とか政治家じゃないし、これでいいんじゃないかとも考えた。でも今は、ここで違和感を覚えた私は「気難しい女」なんかではない、とはっきり思える。私は埃をはらって、そのモデル本を、古本屋に売りに行った。
イ・ランは問い続ける
で、その売り払ったモデル本と引き換えのように手に入れて読んだのが、最近の韓国文学ブームを盛り上げている1人であるイ・ランのエッセイ『悲しくてかっこいい人』だ。
イ・ランは、私たちがなんとなく「そういうもの」だと思い込んでしまっているさまざまなものに対して、「どうして? なぜ?」と問う。「なんで、学生は毎朝早起きしなくちゃならないのか?(p.255)」という素朴すぎる問いから、「なぜ、この世には大勢の人が選ばない選択があって、またそれが支持されることもないのか?(p.255)」という本質的な問いまで、イ・ランの「問う」姿勢は決して子供っぽいものではなく、勇気のある大人の振る舞いである。
思いのほかたくさんの人たちが質問することを恐れていて、実際に質問してこなかったせいで、たくさんの問題が生まれているように思う。二〇一四年に、韓国であの大惨事「セウォル号」沈没事件が起きたとき、学生たちは「じっとしているように」という船内アナウンスを聞いて、沈んでいく船の中で次のアナウンスを待ちながら死んでいった。この日以降、わたし自身を含む、多くの人たちが「じっとしているように」という言葉が自分の身の安全を守ってはくれないことを痛感した。(p.256)
決まりきっていることを今さら質問するのは、子供っぽい行為かもしれない。他人の幸せな話や美しい話に疑問を呈するのは、心が狭く、気難しく、野暮かもしれない。「じっとしているように」と言われたら、じっとしているのが賢明かもしれない。なんとなくそう思わされているけれど、『悲しくてかっこいい人』は、質問していいのだ、なぜ、どうして、何のために、と聞いていいのだと、読む人にそっと囁く。
小さな違和感を無視しないでよいと思えること
SNSで声高に主張するだけが、何か具体的な活動や行動をすることだけが「社会を変える」のではない。ほんのちょっとした違和感を見逃さないことや、疑問に思ったことを素直に口に出してみること。『悲しくてかっこいい人』は、そういう小さなことを見逃さないエッセイなのだ。
イ・ランは、浮気を繰り返した父親を憎んでいるらしい。でも自分も大人になった今、浮気は「よおし、するぞ!」と意気込んでするものではないと、自身の実感としてわかり、だから浮気をする人に悪い感情を持たなくなったらしい。大人になってからも親を恨み続けてもいいし、大人になったことで親のしていたことの理由がわかり、許せないまでも、「まあそういうこともある」くらいにはなったりしてもいい。日常の中で揺れ動くイ・ランの思考は、読んでいてとても面白い。
ひと昔前、私はモデルの恋愛観に疑問を呈すことを、気難しく野暮なことだと思っていた。でも、「野暮かな?」と思うようなことでも、違和感を無視しないでいい。モデル本と引き換えに手に入れたのがこの『悲しくてかっこいい人』だったことは、もちろんただの偶然なんだけど、私が小さく抱いた「違和感」をそっと、肯定してもらえた気がした。
Text/チェコ好き